敗戦

終戦と敗戦という語がある。敗戦を、あたかも終戦とすりかえることで、そこにごまかしが発生してしまっている、という説をといているのが、白井聡氏であるそうだ。終戦と敗戦とでは、たしかにニュアンスや意味がちがってきてしまう側面がありそうだ。永続敗戦論とは、終戦という語によってごまかしをするのではなくて、きちんと敗戦という不合理なものと向きあうべきである、という意見であるようだ。
永続敗戦論とは、くわしいところはわからないんだけど、数学または哲学でいわれているというアキレスと亀のパラドックスのような部分があるのではないか、という気がした。アキレスと亀のパラドックスでは、アキレスは、先行する亀に永遠に追いつくことができないといわれている。
敗戦というのは、戦勝国の側の優位というのに、従わざるをえないといった側面をもっているものでもありそうだ。戦勝国の側の世界観みたいなものに従うということは、アキレスが亀に追いつこうとするようなものといえるのではないか。決してくつがえすことが不可能な距離の溝みたいなものが、アキレスと亀の間には存在していると考えることができそうだ。
永続的に敗戦しているということを、忘れることはできるが、何かの拍子にまた思い出してしまうような出来事に遭遇するという可能性がある。アキレスと亀の関係性とは、平等や対等なものではなくて、アキレスの側にリスクやハンディがあるともいえるようだ。亀に追いつこうとするアキレスは、途中で転ぶかもしれないし、障害物に出くわすかもしれないという、トラブルがあるかもしれないから、チャンスみたいなものが、はじめから亀の半分(以下)くらいしか与えられていないのだ。
敗戦ということでは、歴史を修正でもしないかぎりは、過去の結果をくつがえすことはできないので、どうしても敗戦した側から見てしまうから、バイアスみたいなのがかかってしまうことがありえるので、そこに注意する必要がありそうだ。アキレスと亀でいえば、先行する亀に追いつこうとするアキレスの側から見たものにすぎないということになりそうだから、正しく亀というものを見ているわけではないともいえそうだし、それはアキレス自身(自己認識)にもいえることなのだろう。(参考書籍:『KITANO par KITANO 北野武による「たけし」』ミシェル・テマン 松本百合子訳)

日本語には、ひらがなの、やまと言葉というのがあるといわれる。やまと言葉である和語の歴史は古く、いっぽう漢語は輸入されたものであるという。そのやまと言葉では、からだの顔の器官でいうと、目は芽、鼻は花、耳は実(実×2)、歯は葉、といったように、自然界の植物と対応しているそうだ。人間は親から産まれて育てられるものであるけど、それについても、父とは”ち”が 2つであり、母の乳(ち×2)によって栄養をうけて育つことになる。やまと言葉で”ち”というのは、不思議なもの、根源的なもの、スピリチュアル(霊的)なものというのを意味するそうだ。
母の乳というのは、母乳であり、乳(ミルク)というのは体内の血の変形したものでもあるという。実際的な面でいえば、父の影響や母の乳といった、不思議で大事な”ち”によって人は育つものだということになるのだろう。親は大きく、子は小さいものだとすると、父や母(乳)といったような、不思議で大事なものである大きな現象に、子はその一部みたいなかたちで常に包摂されている存在だということでもあるのだろうか。
現実の親が嫌いな人なんかで反発をしているケースであれば、じっさいの親にとって代わるような別のよりよい父や母の乳となりうるものであるような滋養となる”ち”を、探し求めることになったりしそうだ。なにが当人にとってのアクチュアルな”ち”となりうるかというのは、人によって変わってくるものなのかもしれないし、いい形で見つけうるかどうかというのも、かかる時間はまちまちである、という側面もありえそうだと思った。(中西進氏:万葉学者)

省察

「省察を生むのは痛みです。年齢ではなく、ましてや髭でもありません」(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹)

テレビで、朝日新聞の記事の撤回をめぐる番組をやっていた。朝日新聞は、吉田証言とよばれるものにかんする記事を虚偽とみとめ、32年ぶりに撤回したという。従軍慰安婦の発端ともいえる、韓国の海女のひとのいるちいさな島(?)にテレビの取材がいったところ、現存する海女の年配のひとたちは一様にみな、強制連行された話などは聞いたことがない、もしそうであれば、狭いところだし、知らないはずはない、といったコメントを言っていた。
連行されたひとたちが当時働いていたとされる工場は、とうぜん女性の労働者であるはずだが、テレビの取材によって、じっさいには力のいる仕事で男性がはたらく工場であったという。取材に応じた現地の人たちは、とても率直なコメントの様子だったと感じた(番組の操作が入っているのかもしれないが)。これは、吉田証言といわれるものが虚偽であったとする朝日新聞のあたらしい見解を裏づけるもののようだった。
従軍慰安婦における強制連行とは、それが本当にあったのかなかったのかというのは、フィクションみたいなものも入り混じってしまっているようだから、断定できるものではないということになるのだろうか。かりに(部分的に)フィクションであったとしても、それを信念みたいなふうに既成事実化してしまっている人もいるということであれば、シリアスな問題であるのだろう。日本人の全体の人権というか、風評もそこなわれてしまっているところもまたあるから、ややこしいところがあるというか、複雑になってしまっている側面があるし、捨ておけないものでもある。
強制と自由意思ということで、厳密にではなく、広い意味で強制ということをとらえることも可能だという。広い意味で強制というのをとらえてしまうと、どこまでも広がってしまうものでもありそうだ。強制力というのはなんらかの形で、社会のなかにいるものにかかっているものだろうから、拡大解釈してしまうと誤解(曲解)をうむ余地が生じかねない危惧があることもたしかだ。
この問題というのは、なんらかの形で、”おのれ側の醜いところを見ざるをえない”というところがあって、それにフタをしてしまおうとする傾向があるのではないか、と思った。日本の隣国である韓国などの立場に立てば、日本は加害者であり、韓国は被害者であるとすることから、(部分的な)フィクションをあたかも既成事実であるかのように思いこんでしまっているところからくる醜さみたいなものに、フタをしてしまっている結果になっていそうだ。
世界に目を転じれば、日本(だけ)があたかもこの問題において、レイプ国家であるという見方がされることがあるようだが、なにも軍と性の問題というのは、日本にかぎったことではないというのが、大阪の橋下徹市長のスタンスだ。日本が(悪い意味で)特殊な国であるとする見方は、たとえばアメリカやヨーロッパ諸国などの西欧の国の、自分たちの(近)過去の醜いところにフタをしているというきらいがあることもまた事実だろう。国が主体となって強制連行したということで、日本を(悪い意味で)特別視することで、自動的にというか、結果的に自分たちの見たくない良くないところにフタをしていることになるわけだ。国でなく、民間であったとしても、性労働者の方たちの管理が万全であり、完全に配慮がいきとどいていたと考えるのは、戦争というひどく混乱した状況においてはむずかしいのではないか。
だれしもが、イノセントな、ピュアな純な存在でありたいというのは、願望としてあるのかもしれない。痛みというか、過去の醜さみたいなところにも、目を向けていくことが、省察ということをするのであれば、必要になってくるのかもしれないけど、認めたくないフタをしたいこともまたあるから、むずかしいことでもありそうだという風に思えた。

横断

外で道を歩いているとき、なるべくなら横断歩道を渡ったほうがよい。横断歩道まで行くのがめんどうなときは、車道を横ぎって渡ることがあるけど、それだと車にひかれてしまうリスクがある。もし歩いているときに車にひかれてしまっても、それが横断歩道の上であれば、歩行者優先だから、たぶん法に守られているからいちおう安心なのではないか、というのはありそうだ。
うろ覚えだけど、こんな話があるのを思い出した。フランス人は、歩いているときなんかに、信号を信用しないで、自分の判断で道を渡るというのである。たとえ信号が赤でも、自分が大丈夫だと判断できれば、渡ってしまうというわけだ。いっぽうドイツ人は、フランス人とはちがい、必ずといっていいほど信号の合図を守って道を渡るという。車の交通がすいていて危なくなさそうでも、赤なら止まっているし、青なら渡るというわけである。
日本人は、ドイツ人のようなタイプが多そうだ。といっても、いろんな人がいるわけだし、信号が赤でも渡ってしまう人もいるし、横断歩道ではなく車道を平気で渡れる人もいそうだ。ケースバイケースで、同じ 1人のひとであっても、気分によって法のきまりをわりと遵守するような日もあれば、用事で急いでいるかなにかしてついショートカットしたくなる気持ちの日もあるのだろう。
フランス人は、知的だから、自主的に判断をするのが得意なので、それが信号のある横断歩道においても発揮されているというわけだろうか。フランス人だけではなくて、たとえば中国人も、車の走行の合間をぬって道を横断するなんていう風習の話をテレビ番組で聞いたことがある。片側何車線にもなっている広い幅の道を、中国人はその場の機転(?)によって歩いて渡っていくというのは、勇気があることの証だということのようだった。この勇気は、よく言えばそうだが、悪く言えば無謀さであるということでもありそうだ。中国は商売の国だから、相手(車の運転手)の足元を見るのがうまいので、いざという時は車が止まってくれるものだという心理的カケヒキの感覚がはたらいている可能性もなくはなさそうだ。
おなじ日本人であっても、信号が赤でも渡っている人がいたら、その人はフランス人タイプかもしれない。また車道を横ぎって渡っている人がいたら、勇気のある中国人タイプかもしれない。おそらくおおかたの日本人は、信号の合図が赤だったらしたがって止まっているものだろうから、それはドイツ人タイプであるということになるのだろうと思った。

バイク

白バイが、サイレンを鳴らしながら、道路を走ってきたと思ったら、そうではなかった。白バイではなくて、東京消防庁の、赤い色のオフロードバイクだった。山とか川のある地域だと、このバイクは、ときどき道路を走っているのを見かけることがある。とてもかっこいいと思った。消防庁のバイクは、オフロードタイプだから、アウトドアっぽくて機能性があるせいか、デザインの無駄みたいなのがないため、削ぎ落とされたよさがあるからかもしれない。いざというときの頼りになりそうだと思えた。

生物

人間は生物だが、生物に生まれるのはマレなことであるという。遺伝子学者の木村資生氏によると、生物に生まれるには、1億円の宝くじを、1万回連続して当選するくらいの確率が必要とのことだった。

ユー

テレビ番組では、よくジャニーズのアイドルの人たちが出ているようだ。それで、ジャニーズの社長であるジャニー喜多川氏の口調をまねて、「ユー(ユーたち)、○○しちゃいなよ」なんていうフレーズを、暴露話なんかで耳にしたことがある。ユーとは、英語で You のことで、あなたという意味の二人称であり、中学校の英語の授業で習ったものであった。ここで、なぜジャニーズのアイドルのタレントの人たちが、優秀な人たちであることが少なくないのか、という理由として、ジャニー喜多川氏の特有の口調にその要因のひとつがあるのではないか、という風に思えた。
ユー、という呼びかけは、あまり日本人でやっている人はいないだろう。日本語では、ときに応じて呼称が変化するし、省略されることもしばしばだ。アメリカの文化を身に着けているであろうジャニー氏が、日本語との折衷みたいなかたちで、独自に使っているすべみたいなものがユーでありそうだ。英語の You という呼びかけには、それを使うことによって、呼びかけられたものを全体としてとらえているのだそうだ。そのため、You と呼びかけられた人は、自らの全体として、責任をもってその呼びかけに返答することをせまられる。
年齢のちがいをそれとなく察して、年功序列みたいな感じで、上下関係という役割分担が自然にさだまってしまうのが日本のいいところでもある。KY という、空気を読むハイコンテキストな文化が、日本にはあるからだろう。役割がさだまってしまうと、どうしても相手をその全体としてとらえることができず、部分として歯車の 1つとしかとらえられなくなってしまうのではないか。責任の所在があいまいになってしまうのだ。あたかも感情のない機械のように見なされるリスクもある。
たとえば、社会人、という言葉はふつうに使われるものだが、これを裏がえしてみると、社会人でない者(何らかの理由でそうなれない者)を暗黙のうちに疎外してしまっていることもありうる。なんらかの役割みたいなものを背負わされてしまうと、それに応じた受け答えみたいなのをせざるをえなくなり、それは全体として相手をとらえることをときに妨げてしまいそうだ。
ユー、というふうに、英語の二人称をもちいて呼びかけを投げかけられれば、当然それと対をなしている、一人称であるアイ(I)について自然と自覚せざるをえなくなりそうだ。全体としてのアイ(I)という自覚があればこそ、自分に責任をもって、主体性や個性が発揮されやすくなるのではないか。ジャニーズのアイドルの人たちが優秀な人が少なくないのは、そういった全体としての投げかけを受けていて、自然と訓練というか教育されて導かれているところがあるから、芸能界という場所においてそれがよい面としてプラスにはたらいている可能性がありえそうだと思った。もっとも、他の芸能人のタレントの人たちが、それだけが理由で劣るということはないだろうし、能力の優劣の差みたいなのは、別の要因も大きいことは確かだろう。(参照書籍:『日本語と英語』片岡義男)

振り子

高級なものと、低級なものがある。高級なものは、お金もちなどの裕福な人じゃないと手が出ないものを指すことができる。お金もちではなくても、お金に余裕がある場合にはそういった高級なものをときに楽しむことができる。低級なものというのは、お金に余裕がない人が楽しむためのものだ。低級といっても、価格が安いというだけであって、中身はしっかりとした質の高いものも探せばあるだろうから、いちがいにみな低俗であるということはできないものだろう。
高級なものを経験して知っていると、人間に深みができるという説がある。とくに何かの芸などをやっている人の場合には、低級なものだけしか知らないのと、高級なものも低級なものも両方知っている場合とでは、あらわすもの(アウトプット)に違いが出てきてしまいそうだ。いわば振り子の原理のように、片側だけにとどまっていたりほんの小さい振れかたの静的なものよりも、両方へ大きく振れ動くことができれば、よりダイナミックであり、有利にはたらくものだろう。
日本の戦後から、復興をへて高度経済成長へいたる過程を、生でリアルタイムで体験してきた人たちなんかは、何もない低級な状態から、しだいに物質面で豊かになっていく高級へいたる過程みたいなものを肌で体験しているから、たとえば色んな分野での芸なんかでも深みが出ていたのではないか、という推測も成り立ちそうだ。
生まれたときからある程度社会的インフラも整っていて、あらかじめ豊かな社会に生まれ落ちた人は、はじめから高級な環境であるということができるのだろうか。もしそうであれば、それはその人の落ち度ではまったくないことはたしかだけど、ただたとえば芸なんかでは、昔の人と比べるとどうしても深みに欠けてしまうきらいというのは否めなさそうだ。落差ということでは、下の下から上の上まで知っているのと、上の下から上の上までしか知らないのとでは、体験の幅の質みたいなものが異なっているというのはありそうだ。
なにを低級とみなし、なにを高級とみなすのか、という明確な指標みたいなのが、崩壊してしまっているのが、今の時代(の問題)というのもあるのだろうか。物質的にたとえ豊かな環境であっても、文化的には低級だとみなすことも可能ではありそうだ。そんな中で、たとえ経験した幅の質が多少せまくて乏しかったとしても、そのハンディキャップを逆に活かすことも、易しくはないだろうけど資質しだいでは可能だろう。
ものごとの本質を見抜けるようなきちんとした力のある人であれば、問題はなさそうだけど、ものごとの表面だけしか見られない自分のような場合だと、浅い低級なほうへつい流れていってしまうきらいがありそうだ。けちくさいような、貧乏な性質が染みついてしまった自らの低級さというのをたまには自覚して、ほんの少しくらいは、高級なもの(まともなもの)へ目を向けるという工夫や配慮も必要ではないかと思った。

ポンコツ

ポンコツということについて、思いあたることがあった。水曜日のダウンタウンというテレビのバラエティー番組を見かけたら、そこで売れているお笑い芸人のつれている後輩(芸人)は、ほぼほぼポンコツ説というのをやっていた。そのなかで、ケンドーコバヤシ氏(←売れている芸人)とネゴシックス氏(←後輩芸人)のコンビが紹介されていた。
ケンドーコバヤシ氏は VTR で即座に早口で、「ネゴシックスはポンコツです」とコメントすると、ネゴシックス氏はろうばいしているせいか、「…もう、そうなんですかね…」とか「…そん、こんなはずじゃないんですけど…」などという返しをしていた。最初に「…やっ、あっ」というようななくてもいい言葉がついてしまうから、ふつうよりターンに 1.2倍かかってしまう、ということをケンドー氏から指摘されていた。
これを見て、まさに自分もポンコツだなあという風に実感した。動画を見ていたときは、何となく自分も思いあたるかというくらいの気持ちだったけど、しばらくたって、タイムラグが多少あいたのはあるんだけど、おんなじ症状(?)だったなとはっと思いあたった。
緊張しているせいか、それとも頭がうまくまわらないせいか、だいたいよけいな「…あっ」とかいうのが言葉の最初に口をついてしまうようだ。ポンコツでないふつうの人は、そういったいらない言葉がつかないでも大丈夫なのだろう。恥ずかしい話だけど、ひどいときは、ターンに 1.2倍かかるどころか、ターン自体ができなくなることもめずらしくない(←フリーズする)。
ことわざでは、無くて七癖なんていうくらいだから、だれにでも気がつかないクセや、直しづらいクセというのはありそうだ。そのクセという現象のなかには、あばたもエクボといったような、憎めないものもありそうだ。とくに悪いクセというわけではなくても、内面におけるポンコツさといったようなものがあらわれ出てしまうようなものがもしあるとしたら、自分はそれをいくつかあわせ持ってしまっていそうである。いらない言葉が最初についてしまうといったものや、目がついきょどって泳ぎがちになってしまう、声がうわずる、表情がこわばる、などである。
ネゴシックス氏は、たとえかりにポンコツだとしても、かなり少なく見ても、(ポンコツを下とすると)下の上といった感じである。まがりなりにもテレビですごく活躍していたわけだし、意思疎通の能力もとくに問題がなさそうだ。ただちょっとだけ、社交技術的な面でのクセや、会話の構成力の面でうまい人と比較すると不足があるから、それがテレビの活動においてはややマイナスに働いているということだろう。
対して自分は、下の下という感じがする。社交技術というか、ソーシャル・スキルという面において、かなり不調和といえるオンチの状態がつづいてしまっているからだ。ポンコツというのは、脳の使い方にかたよりみたいなのがあるから、それを是正する必要があるんだろうか。ただたんに自信がないだけというのもありそうだ。理由ははっきりとはわからないけど、自分だけを特別に強く異常と見なしてしまうようだと、自意識過剰の裏がえしかもしれないから、ポンコツをせめてこれ以上こじらせないようにしたいと思った。

ネタ

識(しき)というのがある。これは、仏教でいわれる唯識説というので説かれているものであった。この識というのは、いいかえるとネタという風にとらえることができるのではないかと思った。唯識説では、客観的なものである境(きょう)はなくて、すべては主観が入りこんだ識であるとされ、これを”唯識無境”というそうだ。境はなく、識だけがただあるのだ、というわけである。
識≒ネタであるとできるとすると、たとえばウェブで接する情報などは、極端ではあるが、すべてがネタであるという風に解釈できそうだ。この識というのは、真実でもあり、またウソでもあるということで、そのようなどっちつかず(どっちでもある)というあり方を、”真妄和合識”というようである。真か妄(ウソ)か、どっちにも化けるものでありうるというわけだろう。
ネタというのは、人がどうとらえるかによって、真実にもなり、またウソにもなりえる。真実とかウソとか、良いか悪いかとかいう風に 2分法で判別することもできるけど、あえて 2つに分けないで、あいまいなままをよしとすることも可能である。あいまいなままにしておくと不快だから、どっちかに区分けしてしまいたくなるような衝動がおこりえることになりそうだ。
境はなく、識だけがあるとすると、この世に絶対的なものはないということになってしまう。絶対的なものがないとすると、社会的には困る事態もおこりそうだから、少なくとも方便みたいなものとしてはあっていいものともいえそうだ。あまりシリアスに絶対的なもの(→境)を固持して追求すると、当人またはそのサークル内ではいいかもしれないが、それがかえってネタ(→ウソ)としてはた目から見たら嘲笑などのマトになってしまう可能性もありえそうである。
境というのが絶対的なものであり、形而上学的な客体(物自体)みたいなものであるとすると、それを知ることができないという合理性の限界みたいなものがあって、知ることができるのは識≒ネタ(物語)ということで、この識という物語やパラダイムみたいなのを超えることができないということだろうか。直観に富んですぐれたような能力のある人であれば、その限界を超えることが可能なのかもしれないけど、それは一部の天才みたいな人の場合にかぎられそうだ。(参考書籍:『「電車男」は誰なのか』鈴木淳史)