事故

安全性というのは、ついないがしろにされがちなものだという事が言えるのだろうか。しかし、もし犠牲にされたら、とうてい納得などできそうになさそうだ。韓国でおこったセウォル号の船沈没事故というのは、船長が十分な技能をそなえた人でなかったり、積載可能量のおよそ 3倍もの超過の荷物を積んでいたり、荷物をきちんと鎖などで固定せずに、ロープでつないでいただけだったり、といった事実があきらかにされているようだ。
このようなことから考えてみると、この事故というのは、端的に手抜きということからもたらされたものだという風にも言えるのではないか。この手抜きとは、利潤を最大にしようとする資本主義の価値観の、よからぬ弊害でありまたマイナス部分の象徴だというわけである。利益を少しでも多くあげようと思ったら、どこかに手抜きやしわ寄せが生じてしまいかねないものでもありそうだ。だから自分としては、韓国がとりわけ安全性の意識に欠けた、3流国家だからこのような事故がおきたとは、あまり考えにくいのではないかと思った。極端にいえば、資本主義の国なら、規模の大小はあれど、どこででもおきてしまう危惧の可能性があるといえるかもしれない。

虫は、鳥にとってのエサになるものだといえそうだ。この鳥と虫ということで、作家の中上健次氏の本にこんな文句がのっていたのを目にした、「人間には二種類のタイプがあるんじゃよ。虫みたいに生きとる者と鳥みたいに生きとる者と」(『地の果て 至上の時』)。虫は、鳥にとっての餌食(えじき)となるものだから、食べられてしまう者と、食べる者という、食物連鎖みたいな自然界のあり方を示しているわけである。人間界では、端的には、だます者(←鳥)とだまされる者(←虫)ということになりそうだ。
バーチャルなウェブの世界でも、鳥と虫という 2タイプがありえると考えられるのだろうか。たとえば炎上という事態が発生したとすると、炎上を招いてしまったひとは虫であり、他から食べられてしまう者だということができるのではないか。そして鳥のタイプは、(言葉は悪いけど)外野から標的となるものを引きずり下ろしたり叩いたりとバッシングをする人ということだろう。あるいは、ただそれをながめて傍観しているだけの人も、結果的には鳥のタイプということになるのかもしれない。
虫のように地を這って生きていても、やがて鳥に食べられてしまうのでは、虫はかわいそうだと思える。せめて、鳥のように、ものごとを広い視野で鳥瞰したり俯瞰して考えることができればまだよさそうだ。

「速いレーサーになろうと思ったら、コケたらいけない。体のケガは治るが、でも心のなかに(コケた)恐怖感が蓄積されていき、それが一杯になったとき、レーサーは走れなくなってしまうのだ」(「風、スローダウン」1991年)

認識

人間のもつ認識というものには、内部の視座と外部の視座のようなものがあるのだろうか。内部とは自分の内なる地図であり、外部とは現実であるといえそうだ。認識には視座があるということだから、その視座が内にある地図をたよりにしたものなのか、それとも外の現実をたよりにしたものなのか、ということが時には問題になりそうである。
内なる地図と、外なる現実とが、たがいにほぼ一致したものであれば、そこにはとりたてて問題が発生することがないわけである。しかし、もしそれらが互いにズレてしまったものであったとしたら、そこには問題が発生してしまう余地があるといえそうだ。
外にある現実の変化にあわせて、内にある古くなった地図を修正することができればいいが、そうではなくて、外にある現実の変化をあたかも無いものとして、内にある古くなった地図をそのまま信用するのであれば、そこには不都合をかくす合理化や欺瞞(ぎまん)がおこりうるということになるわけである。その合理化や欺瞞は、個人ひとりの中にもおこりえるし、また内部の地図である利害や価値観が共有されていれば、集団としてもおこりえるものだろう。
認識のズレというのは、内なる古い地図と外なる新しい現実とのあいだにかみ合わないものがおこったときに、内なる地図にたいしてコミットメントの上昇が生じてしまうことをいうのかな、と思った。

IQ

人間の体にある遺伝子は、およそ 2万 5千個にもおよぶという説があるようだ。そしてこの遺伝子は、通常思い浮かべるような静的なものではなく、もっと動的(ダイナミック)なものであるという考え方があるという。これは、科学者の村上和雄氏の説いているものだそうだ。たとえば、人はいまいる場所ではなく、なにか新しい環境に身をおくことで、自分のなかの未知の遺伝子が作動(スイッチ・オン)する可能性があるという。
遺伝子とはちがうけど、知能指数である IQ というのも、ふつうは静的なものとしてとらえられていそうだ。たとえば IQ が低い人といえば賢くないものだし、逆に IQ が高い人というのは天才がイメージされるわけである。この IQ も、静的なものではなくて動的(ダイナミック)なものだ、ということが、脳機能学者の苫米地英人氏によって説かれているようだ。
たとえば、自分がホームだと感じられる場所にいれば IQ は上がり、反対にアウェイだと感じられる場所にいれば IQ は下がるのだという。つまり、IQとは固定されたものではなく、可変的なものだということだろう。とはいっても、もって生まれただいたいの基本的な IQ の値というのはあると考えるのが妥当ではありそうだ(←ただ、天才とバカは紙一重、ということわざもあるけど)。
社会的にマイナスの行為というのがあるとして、そのマイナスの行為をしてしまうときに、原因となるものが仮に当人の一時的な”低 IQ 状態”にあると考えることはできるのだろうか。広い目で見れば、自分の得にはならずに損になる行為でも、この低 IQ 状態においては、そのようなバランスのとれた社会的(常識的)判断がきかなくなると考えられる。
そしてその低 IQ 状態というものがあるとしたら、それは無意識というものの別名でもあるということになりそうだ。通常は意識によってむやみに顔を出さないようにコントロールされているが、無意識は混沌としたカオスの場であるとされることから、それが顔を出したら、意識である理性の力のおよばない領域に支配されるということになるわけである。
つねに IQ が一定の値であれば、そこにはいちおう一貫性があるといえそうだけど、そうではなくて著しく IQ が下がることが断続的に発生するとしたら、そこには(いち人間としての)一貫性が欠けているといえそうだ。IQ の著しく低いときと、高いとき(ふつうのとき)とのあいだに、混乱が発生する可能性があり、それは(おのおので違った)次元がたがいに分裂してカオス化するという危惧がありそうだ。極端な話ではあるけど、いったいそのどちらが本当の自分であるといえるのだろうか、と思った。

だれにでも、無気力感や虚無感にとらわれてしまうことはあるのだろうか。多かれ少なかれ、または程度の差はあれ、そういった時があるといえそうである。まったく気分の落ち込む時がないような人がいるとしたら、そういった人がうらやましいという気がする。だけど、本当のところは、表向きはそうであったとしても、裏面では落ち込んでしまう時があるかもしれないから、他の人に気持ちが沈んだそぶりを見せないのが上手だということかもしれない。
作家の村上春樹氏が言うには、アメリカの作家であるスコット・フィッツジェラルド氏が”魂の午前 3時”と呼んだものがあるということらしい。この”魂の午前 3時”とは、文字どおり 1日のうちでだいたい午前 3時頃になると、人はしばしば理由なき深い虚無感や無力感にさいなまれがちなものだという事のようだ。したがって、人は午前 3時になるべく目覚めていないようにした方がよいというわけである。もっとも、だいたいの人は、いわれずとも午前 3時くらいには眠っているものではありそうだ。
この魂の午前 3時とは、フィッツジェラルド氏の説にしたがえば、それは 1日のうちで具体的なポイントとして、局在しているといえそうだ。だから、その決まった時間をやり過ごせばしのげるということになりそうだ。この説の紹介者である村上春樹氏も、なるべくその時間帯には起きていないようにすむために、日中のうちにきちんと体を動かすなりして充実した時間をすごしておくべきだ、という意見を述べていたようだ。
自分としては、この魂の午前 3時とは、かならずしも局在しているものではなく、人によっては遍在しているという可能性もありそうだと思った。1日のうちで、たとえば午前 11時くらいにふいに気持ちが深くブルーになる場合もあれば、それが午後 3時になることもあるというわけだ。このように、偶然性によって無秩序化(カオス化)した魂の午前 3時というのがあったとしたら、それは厄介であろうし、昼のなかの闇といったような矛盾したものであり、また病的であるということがいえそうだ。
魂の午前 3時をやりすごすためには、まずはそれを午前 3時というもとの時間(場所)に正しくおしこめるというか、1日のうちでほかの時間に顔を出させないようにもする必要があるのだろうか。そう考えると、ちょっと面倒だと思った。

目線

いったん精神がたかぶってしまうと、なかなか平常に落ち着かせることが難しくなってしまうようだ。それは、自分の心の幼稚さから由来するものかもしれないから、何とか改善したいという気持ちがある。だけど、根気が続かないせいか、うまくいった試しはないことも確かである。
お笑いの南海キャンディーズの山里亮太氏は、イヤな相手を心の内面でゆるす術をもっているようだ。それは、こういったようなものだそうだ、「あいつはイヤな奴だけど、そのイヤなアイツを心のなかで許してやっている自分はとても偉い」という風に気持ちを切り替えるものだという。このように考えることを、山里氏は「勝手に上から目線」と名づけているようだ(←『みんな 14歳だった!』という本にのっていた)。
この山里氏の「勝手に上から目線」というのは、よさそうだと思い、自分も日常で試してみようと思った。自分は日常でとてもキレやすいというか、怒りを覚えてしまうことが多いと自覚しているので、それは切迫したものでもあるといえる。ただ、同時に幼稚という意味で、はたから見たら低レベルで滑稽でもあるかもしれないが。
実践するうえで、ひとつ問題かな、と思ったのは、自分のなかの間違ったポリシー?として、イヤな奴を許すことはできない、というものがあることである。いい人のことを許すことはできるだろうけど、イヤな奴のことを許すことはできそうにないのだ。逆にいえば、(自分が)許すことができないからこそ、イヤな奴なのだというわけである。
だから、それを解決するために、そのイヤな奴を、あたかも精神分析学でいわれる神経症であるという風にレッテル貼りをしたらどうか、と考えた。といっても、神経症という名前はすでに医学的に死語であり、無意味なものであることは間違いがないだろう。いちおう、その意味するところとは、限定されたものであり、こういったものである、「人間は、自分が尊大(卑屈)だと思っていないときこそ、もっとも尊大(卑屈)になっているものだ」。この説(パラドックス)は、精神分析学の岸田秀氏の考えだったと記憶している。
つまり、イヤな奴とは、なぜそれがそうなのかというと、自分が尊大(あるいは卑屈)だとまったく気づいてもいないからであり、だからこそ尊大な態度になっているものを指すというわけである。そのうえで、それをふまえた上で、(心の中で)許してやっている自分は偉い、という風に思ってみようと試みてみる。こうすることで、なんとか「勝手に上から目線」ができないかという風に考えている。
自分は心がかなり狭い人間なせいか、相手を許すということができない場合がとても多いようだ。だから、そんな自分から見たら、山里氏は心が広い人間だという風に思える(実際に広いのかもしれない)。日常で許すということができないとしても、せめてそう試みるくらいはしてみるべきであるという風に思っている。ただ、それが全く不毛な試みである可能性もありそうだけど。

装飾

「装飾(デザイン)とは、お飾りともいうように、空いたスペースになにか消極的にあな埋めする事ととらえられがちだ。だけどそうではなくて、装飾とは、たむけられた花である」(鶴岡真弓氏:多摩美術大学芸術人類学研究所 所長)

悪人

だれでも、ひと皮をむいたら、本性があらわれてくるという部分がありそうだ。いい人でも、ひと皮をむいたら、じつは悪い人かもしれないというわけである。人間には、そのような 2面性がある場合が、少なくないのかもしれないし、それが自然なことかもしれない。
まえにあるテレビ番組で、予備校教師の林修氏が、このようなニュアンスのことを言っていた、「いまの時代に本を書く著者というのは、基本的にイヤな奴に決まっているんです」。その理由として、「なぜなら、もうすでにたくさんの本が過去に出版されているなかで、『オレの意見』を新しく開陳するわけだから、どうしてもイヤな奴にならざるをえない側面がある」ということだった。
たしかに、過去に大量に本が出版されているわけであり、大量の意見がすでにあるなかで、自分が新しく意見を発表するということは、本来あまり必要性のないことともいえそうだ。だから、どうしても新しさを出す面でも、エゴが表出されてしまうといったきらいがあるわけだろう。
この説をふまえると、時代の風化に耐えてきたような古典とされるものは、基本的にいい人(著者)だといえるのではないか。いい人というのは、長く活躍できるものであるという。また、そのようないい人である古典というのは、受け手によって多様な解釈をゆるすものでもあるだろう。したがってそれは、年々歳月をへても、進化していくものである、ということでもあるわけである。
たとえ古典とはいっても、現実的にみたら、過去においていい人が作ったものもあるだろうし、また当時の悪い人が作ったものもあるのだろう。また、現代の人が作った新しいものであったとしても、かならずしもイコールイヤな奴が作ったものだ、と言い切れるものではなさそうだ。なかには現代でも人格者でいい人がいることは間違いがないことだろう。
例外はあるにしても、自分としては、古典がいまに生き残っている理由として、①いい人だから、②年々(解釈などが)進化する余地があるから、というのがあげられると考えてみたい気がする。①の理由は、古典を擬人化してしまっているかもしれないが。ちなみに、この 2つの要因というのは、元タレントの島田紳助氏がビジネスの新書のなかで述べていたことであり、それはこういったものだった、「ある分野で長年にわたって活躍する人には、①人がいい(いい人である)、②年々進化している、という特徴がある」。
林修氏が述べるように、たとえ現代の新しい本の著者がイヤな奴であったとしても、そのイヤな奴である人が作ったものが時代の風化に耐えて、やがて古典となったときには、逆にいい人に変化しうるということが考えられるのではないかと思った。

俳句

自分では日常で俳句をつくることはない(できない)。だけど、「俳句」という曲があって、それを iTunes Store で購入して、聴いたらいい曲だった。これは、シャンソン歌手のワサブローという人の曲だった。はじめは、NHK の AM ラジオで曲がかかっていたのを耳にした。てっきり、ラジオで耳にしたときは、ずっと以前に売られていた古い日本のフォークの曲なのかな、とかんちがいしていた。だけどそうではなくて、2012年くらいにリリースされたもののようだった。
この俳句という曲は、3拍子でほのぼのとした調子であった。伴奏はギターとベースによるものであった。そして歌唱と歌詞がユーモラスであり、なかにじっさいにワサブロー氏が作ったものであるらしい俳句が用いられているのが特徴のようだ。なかでも、”意地と愚痴 おでんに煮こむ 母の夜”という句が、実感がこめられているようでいいと思った。