もの

もののあわれという語がある。この語は、ものというのと、あわれというのとで成りたっている。ものは、道理や理法を意味し、なるようにしかならないことを指すという。大きな前提となるようなものである。あわれというのは、情感を意味するもので、ものに対していだく哀愁などがふくまれるという。ものがあるから哀れをさそうというか、抱くということだろう。ものとあわれの間の葛藤から意味が生みだされるといえる。国語学者の大野晋氏による説だそうである。
もの+あわれということで、道理と情感というのが、あらかじめ 1つのものとして統一(ユニテ)されているとも見れそうだ。ものである道理と、あわれである情感とを、たがいに対立するものとしてみれば、そこには西洋の弁証法的なありようを見てとることも可能だろう。結果である弁証法的な統一としてのもののあわれというものが、日本の先人が培ったとされる古くからある伝統的な心持ちみたいなものであることから、すでに当たり前なことというか、あらかじめ常識みたいな形で、今を生きる人にも程度の差はあれ備わっているという部分もありそうである。苦せずして無意識に備わっているか、少なくとも潜在的にひそんでいる感覚なのだろう。
天才というのは、このものというのと、あわれというのを、個人的に高いレベルにおいて統合することに成功している人を指すことができると考えられる。見わたしてみれば、例えばものだけが突出している人というのは存在するし、またあわれだけが突出している人というのも存在しているといえそうだ。道理であるものが突出していればどちらかといえばドライ(乾性)であり、情感であるあわれが突出していればウェット(湿潤)だ。
道理とか理法といった、論理または理性にとくにすぐれている人や、その反対に、情感や哀愁といった感性にとくに秀でている人もいる。その 2つの要素を、うまく等水準で統合するということは、いまの時代には非常に困難で、できにくいことだという可能性はありそうだ。万人に普遍的というか、同時代に生きているみんなが納得できるような、もののあわれの共通した形というものが、IT 技術の発達などによる情報化時代の中では、あらわすことがとても不可能なためというのがあるような気がする。(参照書籍:『おっとりと論じよう』丸谷才一)

同調

対談を目にすることがある。A という人と、B という人が、対談をしているのをまとめたものだ。A という人が、B という人の意見に対して、おもねるというか、話を合わせようとしているのではないか、という風にいぶかしく(?)思える箇所があったりする。B が、私はピーマンが嫌いだ、といったとすると、A はその後にすぐに、ピーマンってまずいですよね、みたいな感じで続けているような流れである。
ほんとうは A の人は、日常ではピーマンがそれほど嫌いではなくて、むしろ好きで常食している可能性もありうる。だけど対談の場ということでは、B の人の意見に合わせておいたほうが、なにかと気分がよく事が運ぶというか、つまらない対立をまねくことを避けることができるし、少なくとも B からはその場においては好感触をもたれることが可能だ。
どうでもいいような事柄であれば、いちいち相手と対立していてはムダなことである。意見を相手と同じように合わせておこうというのは、カドが立たないし、いわば経済的に理にかなっているかもしれないから、エコノミー(省エネ)である。どうでもよくないような事柄であればそれはどうなのだろうか。ポリシーの根幹付近に関わるようなことであっても、相手と(その場だけは)意見を合わせるというのであれば、それは 1つの技みたいなものであるといえそうだ。その技は、社交技術の 1つみたいなものだということになりそうである。良くいえば、無私の精神だろうか。
相手と意見を合わせるうえで、ポリシーの根幹付近に関わるようなことでもそれができるのであれば、万能性というか、オールマイティーな感じをうける。何でもそつなくこなせるということだ。柔軟性があるのであるが、それと同時に、のらりくらりというか、ノンシャランな感もまた否めないように感じられる。
1点豪華主義というか、1つのことに精通しているプロパーな人がもしいたとしたら、そういった人は、その場の空気よりも、自分のポリシーを優先させそうなイメージがある。専門性のある人は、何でもできるという万能性がないからこそ、1つのことに精通できる(できた)、といったイメージである。頑固で 1本筋が通っているというか、一部のわかり合える人にとっては何か信用がおけそうである。
少なくともその場において、相手と意見を合わせることができるというのは、脳のミラーニューロンと関係しているのだろうか。ミラーニューロンというのは、くわしくは分からないんだけど、なんでも相手と同調するとか、共感するとか、マネをする、といった機能があるそうだ。だから、ミラーニューロンの比重というか、ウェイトがとくに高い人は万能というか空気を読むのに長けていて、その比重が低い人は自分のポリシーをあくまで優先しがちである、なんていう違いがあるのだろうか。もっともこれは、もしそうだとしても、単なる結果論ということかもしれないが。

並列

直列と並列があるという。直列は英語でシリーズというそうで、並列はパラレルというそうだ。時間という点でいえば、直列はモノクロニックであり、並列はポリクロニックである、ということがいえそうである。モノクロニックは 1元的であり、ポリクロニックは多元的であるといわれる。1度に 1つのことだけを処理していくのと、1度に複数のことを同時に平行してやっていくのとのちがいであるそうだ。
人間の脳というのは、並列的であるという。機能脳科学者の苫米地英人氏によると、脳というのは超並列的なものであるらしい。また解剖学者の養老孟司氏によると、脳は並列分散処理をしているということのようである。異なったものが、同時に平行して処理されているのが、人間の脳であるというわけである。労働者が仕事をしながらつぎの食事のことをふと思い浮かべたり、または哲学者などが歩きながら考えごとをしたりなんていうのは日常でままあることだから、それほど不自然なことではなさそうである。
脳が並列な情報の処理のあり方をしているというのは、不思議な感じがするところもあると思った。それは、それほど新しいものではないんだろうけど、脳科学による知見による発見の 1つということであるのはたしかだろう。並列なあり方とは、混乱をまねくことがありうるが、柔軟であることの別名かもしれない。直列とは、その点では、秩序があるが、反面では融通がきかず硬直にもつながりかねないものだ。
10の知識があるのと、1000の知識があるのとで、単純にいえば、量が多いほど反応や応答のスピードは物理的に遅くなりそうだが、脳は超並列的なあり方をしているので、わかりやすい計算が成りたたないのだと、先の苫米地氏は述べている。もの知りのひとが、ものを知らないひとに比べて、あらかじめストックされた知識の量に正確に比例して、脳の応答のスピードが遅くなるわけではないのだ。量から質への飛躍みたいなものが、だれの脳でも自然とおこなわれているということだろう。(←参照動画:YouTube)
1度に 1つずつという処理のあり方は、どちらかというと日本や欧米などの先進国の文明のあり方に近いといい、いっぽう 1度に複数のものを平行して処理するあり方は、未開というかやや非文明的なあり方であるという。とすると、脳の並列的な側面というのは、直線的な進歩史観を仮に科学的とするなら、それとはまた別の質をもった、野生の思考のような、もうひとつの科学のあり方を示唆しているのかもしれないと思った。

影響力というのがある。この影響力の強さというのは、自分では気がつきにくいところもありそうだ。影響力がほとんどないような、微小なものであれば、泡沫で有象無象であるから、それほど自分のことについて気をつける必要がないといえる。影響力がもしも強いのであれば、できるだけそれが悪いほうにいかないように、注意する必要がある。社会的には、権力を有しているものは、嫉妬をまねきがちだから、影響力が高いという風にいえそうだ。たとえ権力を有していなくて、泡沫でふだんは微小な影響力しかなくても、あるときそれが極大に近くなる、ということもある。ウェブにおける(一個人の)炎上などが、そのケースである。
なにかを発信(アウトプット)するということは、池に石を落とすことに例えられることがあるというのを、以前新聞記事のなかでみかけた。池に石を落とすと、水の表面に波紋がひろがる。波紋が、すなわち影響力というわけである。いいほうに行けばいいが、そうではなくて悪いほうに波紋が広がってしまうこともしばしばある。期待どおりのリアクションがなくて、ただ黙認(無反応)というノーリアクションなこともしばしばあるだろう。価値が明確にあるのならともかく、そうそうリアクションがのぞめるものではないのだろうから、スルーされて当然であり、期待するのが間違っている可能性がありえる。
悪くころがって、一大事になれば、あとで修正がきかない事態にもなりうる。悪い波紋というのは文明においては、記録されて、曲解や誤解をふくんだまま、(しばらくは)忘れられにくいこともありそうだ。波紋を生む元となった石ではなくて、その結果みたいなものとしての波紋(影響)がおもに問題にされてしまうのである。
石を池に落として、その水面に波紋がひろがる。その一連のプロセスや、結果として生じた波紋(影響)というようなものの全体を、それを受けとる受け手の側が、あくまでも良いほうにうまく解釈してくれるだろう、という風に送り手が考えるのは、プラス思考だといえる。その送り手におけるプラス思考は大事だが、維持するのが時にむずかしいことも少なくはないという。
世間や社会はそれほどヒマではないし、子どものようにスレてない心を皆がもっているものではないし、また他にたいして甘くはなく厳しい性悪説的な部分もあるからである。ポジティブに受け取られるよりは、ネガティブに批判的に受け取られてしまうことのほうが多いし、そのほうがどちらかといえばより現実的といえる。理性というのは否定的に働くものだとされる。
いちど持ち上げられても、その後手のひらを返されて、叩かれてしまうこともある。ことわざでも、出る杭は打たれるというし、出る杭(そぐわないもの)はとりあえず打っといたほうが安心できそうではある。
プラス思考は主観の力だろうけど、できれば、客観の力として、俯瞰して、みずからで全体を見てなるべくメタに立つということも、安定した発信の活動全般にとっては大事である、と思った。川上の発信(送り手)側ではなくて、川下の受信(受け手)側に、優位性というかイニシアティブがあるという側面も、頭の片隅においておいたほうが何かのときにほんの少しくらいは益になることもありそうだ。

不運

不運というのは、あまり歓迎したくないことである。だけど、不運のあとには幸運なことが待っているかもしれない。谷があれば、山があるというし、また、もし雨が降っても、やまないということはないともいう。そのように、循環するようなとらえ方ができればいいし、じっさいにそのようにしている人もいるのだろう。自然なバイオリズムを身体化(?)できているということであるといえそうだ。
不運とはいっても、次に幸運なことがやってくることを期待できるようなものではなくて、悪循環というか、負のスパイラルみたいな感じにおちいってしまうこともある。そういったさいの不運とは、まるでマイナスなもの(だけ)をつぎつぎと引き寄せる物体みたいな気持ちをもよおさせるものでもありそうだ。何かが欠けているというか、何かちぐはぐでズレていて上手くいっていないような現実の感じである。悪いほうへ傾く必然性というか、自分にとっての事態は悪化するのでなければならない、なんていう転倒して倒錯したヘンな心理状態にはまりこんでしまうこともある。
そのような不運は、悪い意味でのアイデンティティーみたいな感じで、あたかもネガティブを絶対化してしまうような部分もある。もしかしたら語のつかい方がまちがっているかもしれないが、数学でいえば、不運というのをそのつど解消して切りかえる微分化ができていなくて、蓄積してついに爆発(自滅)してしまうような積分的なあり方になっているということである。
山あり谷あり的な不運は、不運というのを相対化というか、対象化できているという点で健全なものだろう。いっぽう、不運というのを絶対化してしまっているのであれば、それは不健全かもしれない。後者の不運は、自己意識の過剰さからくる、まちがった意識の実存的な態度のあり方からもたらされてしまう側面が考えられそうだ。意味の病でもありうる。
おなじ不運でも、できれば絶対化ではなくて、相対化や対象化する方向にもっていくことができればまだ幸いであろう。その具体的な方法というのは、よくわからないことはたしかであるが、視野の狭いのを広げるとか、信じるものをもつとか、気長に待つというのも手かもしれない。自分は短気なうえに、猜疑心があり、内なるあやまった観念に強くとらわれてしまいがちであり、視野が狭いので、同じ失敗をいく度もくり返してしまうようなおろかな愚を犯すことがしばしばあるんだけど、それをできれば改める必要があると思った。

いつやるか、今でしょ、というフレーズはブレークして有名である。これは、予備校教師の林修氏のもちいているものだけど、過去でも未来でもなく、今やるということに主眼がおかれている。これは、仏教の道元の説いたとされる”有時(うじ)”というものに通ずるのではないかと思った。道元の有時では、今でしょと同じように、時間というのは過去も未来もなく、今というのがあるだけである、という風な考えかたであるそうだ。
いつもそう思えるわけではないんだけど、たまにふと”今があるだけなんだな”という風に感じられるときがあり、それは今でしょということであり、道元の有時ということなのかなという気がした。過去や未来というのは、頭の中の観念としてあるということはたしかなようだけど、ついそれらにムダに囚われてしまうこともまたあるようである。裏がえせば、ムダに囚われてしまうということは、頭の中の観念でしかないことのあかしなのだろう。今という点みたいなあり方が、高い次元にあるとすれば、過去や未来という線のあり方は、時間の一般的イメージ(通念)ということになるようである。

ジャッジ

ジャッジするということが、ふと気になった。ジャッジメントをするというのは、判断する、判定する、裁く、なんていうことを指すのだろう。かたよっていたり、具体的なのではなくて、中立的だったり抽象的なことに重きをおく人間(抽象度の高い人間)というのがいたとしたら、そういったひとは、ジャッジメントを(うかつには)しないものだと考えられる。それで、そういったタイプの人は、極端になれば、信条(ポリシー)として、どんなことがあっても、ジャッジメントをしないという風にもいうことができる。
ジャッジするというのは、行為だといえそうだ。行為というのは、具体的なことというか、現実的なことだといえ、何かの価値のような基準をもとにして、当てはめてみたりすることである。したがって、ジャッジをしないということは、行為をしないということでもありそうであり、抽象的なことだといえる。
厳密にいうと、ジャッジメントをしないというのは、生きていくうえで、不可能なことのように思える。少なくとも、ジャッジをするのと、ジャッジをしないのとで、前者をより中立的で価値のあるものだと見なすことで、その時点ですでにジャッジをしてしまっていることになるというのもありそうだ。何かをすることで、結果として事後的にジャッジしていることになるという事態もありえる。
だから、ジャッジメントをしないのであれば、ジャッジをするかどうかということもジャッジをしてはいけないことになると言えそうである。ひとの矛盾を少しもついてはいけないことになる。人というのは、だいたい矛盾したあり方をしているものだから、目についてしまうものだし、それは人間のナチュラルなあり方にもしかすると反しているということもあるだろうか。
人がジャッジをするときには、あたかも神のようなスタンスにあるということになるのだろう。神様というのは、何かを裁く存在であり、それはジャッジをしているのと同じであろう。神様というのは、もしかしたら中立的な存在なのかもしれないが、何かを裁くという時点で、そこに常識(神様の常識?)といったような価値が介在しているということになるのだろう。
何かを批判するときには、意識してはいないが、何らかのイデオロギーに自然とうごかされている、という可能性は否定できない。批判をするということは、すなわち意見でありえ、それはイデオロギー(無意識)がその背後にあるということかもしれない。
価値というのは、絶対的であるともいえるし、相対的であるともいえそうである。絶対的な価値といった場合、それはそのように信じている、といった意味あいのものだといえそうだ。だから、他者から見たら、相対的なものだということになる可能性もある。
何かにつけ、自分はものをジャッジしがちであるという風に思いあたった。はたして、自分にはものをジャッジするような資格があるのかといえば、かなり心もとないことも確かである。まずは、何かをジャッジメントしている自分を認識するようにするというか、そういったメタ認知とよばれるものを少しでも心がけてみるようにするべきかもしれない。無意識的(脊髄反射的)にジャッジしているというきわめて低レベルのみずからの現状を、少し意識化してみるということである。
何もジャッジをしないというのは、きわめてすがすがしそうなあり方な気がするんだけど、それは時にむずかしいことでもありそうだ。意思決定みたいなものをしないで生きていくのはむずかしそうだし、そのプロセスというのは、その人の独自のというか、経験によってつくられたものなのだろう。ゆえに、固執や絶対化をしてしまうきらいもある。
ジャッジをする/しない、というのは、たまには気に留めてもいいことかもしれないし、それはメタレベルの領域へ少しはつながるというか、具体的なものをちょっとだけ俯瞰するための、抽象的な見方へと(もしかしたら)つながるのではないかという気がした。価値からはなれて、事実へつながることに少しはなりそうだ。

タイムラグ

安倍首相のアベノミクスでは、マクロ経済政策がとられているそうだ。脱デフレということで、デフレを脱却するためのリフレーションというものがあり、これは日本銀行がおこなっているという量的金融緩和という手法である。この政策がおこなわれてから、じっさいに効果が波及してあらわれてくるまでには、タイムラグがあり、その期間はおよそ 2年間であるということを、経済学者の高橋洋一氏が述べていたのを目にしたことがあった。
経済とは関係ないんだけど、医師の小林弘幸氏によると、ある音楽(ロックミュージックなど)を聴くことで、リラックスの副交感神経のはたらきが高まることが期待できるが、それが顕著にあらわれるのは、音楽を聴いた直後ではなくて、聴いてからおよそ 10分後くらいになるそうだ。だから、ここ一番というときは、逆算して 10分くらい前に自分の好きな音楽の曲などを聴くとよいらしい(厳密に 10分というわけではないみたい)。

科学

科学というのは、二律背反を抱えているのかと思った。科学とは、能率を高めることを追求するものなのだろう。能率とは、スピードを速めることである。スピードが速く、能率がいいものに、より価値があるというわけである。能率が悪いものは、ムダとして切り捨てられることになる。
科学の世界は、ひとつの国の中のみならず、世界規模で、優秀な研究者の人たちなんかが、しのぎを削っているものであるという。早くに新しいアイディアを思いついて、そして一番早く実験なんかに成功して、みなの目に見える形で発表し公表することで、はじめて日の目を見ることができるものである。
科学とは、そのような、能率みたいなものだけが重視されているものだろうか。人間に備わっているインスピレーションや直観というものは大事である。その直観は、優れたものになれば、一部のかぎられた優秀な人においてはたらくものだろう。それをじっさいに確かなものであるとするような分析と検証をおこなうのは、地道な作業になりうる。ひとつの見方だけではなくて、いろんな角度からも確認の作業をしないと、正しいと思っていたことが、じつは間違っていたことだと判明することが妨げられてしまうこともありえる。
脳科学者の中野信子氏によると、人間の脳の意思決定には 2種類あって、ひとつは速いシステムであり、もうひとつは遅いシステムであるという。競争でせかされて、はやく結果を出さなければならないというプレッシャーをかけられてしまっていると、脳の意思決定の速いシステムだけが使われてしまいがちになるのではないか。比較的ゆっくりとした、エラーのチェックなどに役だつ遅いシステムが、効かなくなってしまう可能性がありえる。すると、主観的な間違いを見つけることができにくくなってしまうことがありえそうである。
人間の脳の意思決定の回路である、速いシステムと、遅いシステムを、バランスよく動かせれば、安定した活動ができそうだ。能率などを極度に重視されてしまうような環境におかれれば、速いシステムばかりを使わざるをえなくなり、偏りがでてアンバランスを招いて不安定になってしまうことが予想できる。科学というのは、この 2つの意思決定の回路のどちらか一方だけを優先し、もう一方をないがしろにすることを許さないようなあり方になっているとしたら、その時代における文明の要求との間で矛盾が生じて、引き裂かれて分裂してしまうような事態も生じてきかねないような気がする。分裂したまま統一もされているというのが、正しいところなんだろうか。

無効

設定で、「○○を無効にする」を有効にする、というのがあった。有効にすると無効になるというのが、ちょっとややこしいところがあった。