ジャッジ

ジャッジするということが、ふと気になった。ジャッジメントをするというのは、判断する、判定する、裁く、なんていうことを指すのだろう。かたよっていたり、具体的なのではなくて、中立的だったり抽象的なことに重きをおく人間(抽象度の高い人間)というのがいたとしたら、そういったひとは、ジャッジメントを(うかつには)しないものだと考えられる。それで、そういったタイプの人は、極端になれば、信条(ポリシー)として、どんなことがあっても、ジャッジメントをしないという風にもいうことができる。
ジャッジするというのは、行為だといえそうだ。行為というのは、具体的なことというか、現実的なことだといえ、何かの価値のような基準をもとにして、当てはめてみたりすることである。したがって、ジャッジをしないということは、行為をしないということでもありそうであり、抽象的なことだといえる。
厳密にいうと、ジャッジメントをしないというのは、生きていくうえで、不可能なことのように思える。少なくとも、ジャッジをするのと、ジャッジをしないのとで、前者をより中立的で価値のあるものだと見なすことで、その時点ですでにジャッジをしてしまっていることになるというのもありそうだ。何かをすることで、結果として事後的にジャッジしていることになるという事態もありえる。
だから、ジャッジメントをしないのであれば、ジャッジをするかどうかということもジャッジをしてはいけないことになると言えそうである。ひとの矛盾を少しもついてはいけないことになる。人というのは、だいたい矛盾したあり方をしているものだから、目についてしまうものだし、それは人間のナチュラルなあり方にもしかすると反しているということもあるだろうか。
人がジャッジをするときには、あたかも神のようなスタンスにあるということになるのだろう。神様というのは、何かを裁く存在であり、それはジャッジをしているのと同じであろう。神様というのは、もしかしたら中立的な存在なのかもしれないが、何かを裁くという時点で、そこに常識(神様の常識?)といったような価値が介在しているということになるのだろう。
何かを批判するときには、意識してはいないが、何らかのイデオロギーに自然とうごかされている、という可能性は否定できない。批判をするということは、すなわち意見でありえ、それはイデオロギー(無意識)がその背後にあるということかもしれない。
価値というのは、絶対的であるともいえるし、相対的であるともいえそうである。絶対的な価値といった場合、それはそのように信じている、といった意味あいのものだといえそうだ。だから、他者から見たら、相対的なものだということになる可能性もある。
何かにつけ、自分はものをジャッジしがちであるという風に思いあたった。はたして、自分にはものをジャッジするような資格があるのかといえば、かなり心もとないことも確かである。まずは、何かをジャッジメントしている自分を認識するようにするというか、そういったメタ認知とよばれるものを少しでも心がけてみるようにするべきかもしれない。無意識的(脊髄反射的)にジャッジしているというきわめて低レベルのみずからの現状を、少し意識化してみるということである。
何もジャッジをしないというのは、きわめてすがすがしそうなあり方な気がするんだけど、それは時にむずかしいことでもありそうだ。意思決定みたいなものをしないで生きていくのはむずかしそうだし、そのプロセスというのは、その人の独自のというか、経験によってつくられたものなのだろう。ゆえに、固執や絶対化をしてしまうきらいもある。
ジャッジをする/しない、というのは、たまには気に留めてもいいことかもしれないし、それはメタレベルの領域へ少しはつながるというか、具体的なものをちょっとだけ俯瞰するための、抽象的な見方へと(もしかしたら)つながるのではないかという気がした。価値からはなれて、事実へつながることに少しはなりそうだ。

タイムラグ

安倍首相のアベノミクスでは、マクロ経済政策がとられているそうだ。脱デフレということで、デフレを脱却するためのリフレーションというものがあり、これは日本銀行がおこなっているという量的金融緩和という手法である。この政策がおこなわれてから、じっさいに効果が波及してあらわれてくるまでには、タイムラグがあり、その期間はおよそ 2年間であるということを、経済学者の高橋洋一氏が述べていたのを目にしたことがあった。
経済とは関係ないんだけど、医師の小林弘幸氏によると、ある音楽(ロックミュージックなど)を聴くことで、リラックスの副交感神経のはたらきが高まることが期待できるが、それが顕著にあらわれるのは、音楽を聴いた直後ではなくて、聴いてからおよそ 10分後くらいになるそうだ。だから、ここ一番というときは、逆算して 10分くらい前に自分の好きな音楽の曲などを聴くとよいらしい(厳密に 10分というわけではないみたい)。

科学

科学というのは、二律背反を抱えているのかと思った。科学とは、能率を高めることを追求するものなのだろう。能率とは、スピードを速めることである。スピードが速く、能率がいいものに、より価値があるというわけである。能率が悪いものは、ムダとして切り捨てられることになる。
科学の世界は、ひとつの国の中のみならず、世界規模で、優秀な研究者の人たちなんかが、しのぎを削っているものであるという。早くに新しいアイディアを思いついて、そして一番早く実験なんかに成功して、みなの目に見える形で発表し公表することで、はじめて日の目を見ることができるものである。
科学とは、そのような、能率みたいなものだけが重視されているものだろうか。人間に備わっているインスピレーションや直観というものは大事である。その直観は、優れたものになれば、一部のかぎられた優秀な人においてはたらくものだろう。それをじっさいに確かなものであるとするような分析と検証をおこなうのは、地道な作業になりうる。ひとつの見方だけではなくて、いろんな角度からも確認の作業をしないと、正しいと思っていたことが、じつは間違っていたことだと判明することが妨げられてしまうこともありえる。
脳科学者の中野信子氏によると、人間の脳の意思決定には 2種類あって、ひとつは速いシステムであり、もうひとつは遅いシステムであるという。競争でせかされて、はやく結果を出さなければならないというプレッシャーをかけられてしまっていると、脳の意思決定の速いシステムだけが使われてしまいがちになるのではないか。比較的ゆっくりとした、エラーのチェックなどに役だつ遅いシステムが、効かなくなってしまう可能性がありえる。すると、主観的な間違いを見つけることができにくくなってしまうことがありえそうである。
人間の脳の意思決定の回路である、速いシステムと、遅いシステムを、バランスよく動かせれば、安定した活動ができそうだ。能率などを極度に重視されてしまうような環境におかれれば、速いシステムばかりを使わざるをえなくなり、偏りがでてアンバランスを招いて不安定になってしまうことが予想できる。科学というのは、この 2つの意思決定の回路のどちらか一方だけを優先し、もう一方をないがしろにすることを許さないようなあり方になっているとしたら、その時代における文明の要求との間で矛盾が生じて、引き裂かれて分裂してしまうような事態も生じてきかねないような気がする。分裂したまま統一もされているというのが、正しいところなんだろうか。

無効

設定で、「○○を無効にする」を有効にする、というのがあった。有効にすると無効になるというのが、ちょっとややこしいところがあった。

嫌い

嫌いというのは、”やっぱアリかも”の一歩手前なのではないか。何かの対象を好きになるルートみたいなものとして、2通りのパターンが考えられそうだ。ひとつは、最初から好感をもって、好きだという風に感じられるものだ。もうひとつは、最初はそうでもなかったり、嫌いに思えたりするけど、その印象がひるがえって、一転して好きになる、というあり方である。後者では、マイナスがプラスになるわけだ。前者よりも、後者のほうが、よりその対象を継続して好きでいつづけられる可能性が高いということだった。内面でのドンデン返しがおこって、印象がより強まるからだろうか。
この説は、テレビかラジオで以前ダウンタウンの松本人志氏が、何かの番組のなかで言っていたのをたしか耳にしたと記憶している(本の中だったかもしれない)。何かの対象を好きになるときは、”これはないな”というイマイチな第一印象がひるがえって、”やっぱりアリかも”という風に転じたときのほうが、好きであることが結果として長くつづきやすい傾向にあるということであった。
異性などにおいて、この異性はないかな、とさいしょに思えたのが、やっぱりアリだな、と変わったときには、その異性がより長く好きでいつづけられる(ことが多い)のだという。ネガティブなものをポジティブに変えるということは、多少なりともパワーみたいなものが必要になるといえ、そのパワーが持続を高める効果を生むのかもしれない。
この説からすると、何かの対象を嫌いだという風に感じているということは、それがひるがえって、やっぱアリかもという風に好きの印象に 180度反転する可能性がありうるということではないかと思った。嫌いだというのは、好きの一歩手前の可能性があるというわけである。その好きは、もしそう転じたとしたら、はじめから好きである場合よりも、よりロングスパンで好きでいつづけられる可能性が高いというのだ。
脳の神経伝達物質の世界でも、緊張してしまってアドレナリンが出ている状態のときは、その緊張をとこうと焦ってしまうことがある。あせると、なかなか緊張が解けず、緊張しっぱなしに思えることもある。
緊張しているときは、アドレナリン(←たぶん)が多く優位になっていて、リラックスのセロトニンの分泌が少なく劣位になっているのだ。この緊張優位の状態というのを裏がえしてみると、緊張の後にはかならず弛緩(リラックス)がくるわけだから、むだに焦らずに、セロトニンが優位になるリラックスの状態の到来を期待して待っていればいいわけである(←脳機能学者の苫米地英人氏の本にのっていた)。
嫌いというのは、なんとなく緊張というのと関係がありそうだ。そして好きというのは、弛緩(リラックス)というのと関係がありそうである。はじめに嫌いで緊張していたとしても、その後には、かならずとはいえないが、もしかしたら好きで弛緩することができる可能性があるのではないかと思った。絶対に嫌いだ、という対象には、なかなかその永久凍土のような印象を 180度反転させることは難しいだろうけど、やっぱアリかもという好きの対象に転じる可能性もゼロではないこともたしかだろう。ことわざにもあるように、可愛さ余って憎さ百倍、みたいな心理もありえるから、どっちが本当の本心なのかというのはわかりにくいところがある。

敗戦

終戦と敗戦という語がある。敗戦を、あたかも終戦とすりかえることで、そこにごまかしが発生してしまっている、という説をといているのが、白井聡氏であるそうだ。終戦と敗戦とでは、たしかにニュアンスや意味がちがってきてしまう側面がありそうだ。永続敗戦論とは、終戦という語によってごまかしをするのではなくて、きちんと敗戦という不合理なものと向きあうべきである、という意見であるようだ。
永続敗戦論とは、くわしいところはわからないんだけど、数学または哲学でいわれているというアキレスと亀のパラドックスのような部分があるのではないか、という気がした。アキレスと亀のパラドックスでは、アキレスは、先行する亀に永遠に追いつくことができないといわれている。
敗戦というのは、戦勝国の側の優位というのに、従わざるをえないといった側面をもっているものでもありそうだ。戦勝国の側の世界観みたいなものに従うということは、アキレスが亀に追いつこうとするようなものといえるのではないか。決してくつがえすことが不可能な距離の溝みたいなものが、アキレスと亀の間には存在していると考えることができそうだ。
永続的に敗戦しているということを、忘れることはできるが、何かの拍子にまた思い出してしまうような出来事に遭遇するという可能性がある。アキレスと亀の関係性とは、平等や対等なものではなくて、アキレスの側にリスクやハンディがあるともいえるようだ。亀に追いつこうとするアキレスは、途中で転ぶかもしれないし、障害物に出くわすかもしれないという、トラブルがあるかもしれないから、チャンスみたいなものが、はじめから亀の半分(以下)くらいしか与えられていないのだ。
敗戦ということでは、歴史を修正でもしないかぎりは、過去の結果をくつがえすことはできないので、どうしても敗戦した側から見てしまうから、バイアスみたいなのがかかってしまうことがありえるので、そこに注意する必要がありそうだ。アキレスと亀でいえば、先行する亀に追いつこうとするアキレスの側から見たものにすぎないということになりそうだから、正しく亀というものを見ているわけではないともいえそうだし、それはアキレス自身(自己認識)にもいえることなのだろう。(参考書籍:『KITANO par KITANO 北野武による「たけし」』ミシェル・テマン 松本百合子訳)

日本語には、ひらがなの、やまと言葉というのがあるといわれる。やまと言葉である和語の歴史は古く、いっぽう漢語は輸入されたものであるという。そのやまと言葉では、からだの顔の器官でいうと、目は芽、鼻は花、耳は実(実×2)、歯は葉、といったように、自然界の植物と対応しているそうだ。人間は親から産まれて育てられるものであるけど、それについても、父とは”ち”が 2つであり、母の乳(ち×2)によって栄養をうけて育つことになる。やまと言葉で”ち”というのは、不思議なもの、根源的なもの、スピリチュアル(霊的)なものというのを意味するそうだ。
母の乳というのは、母乳であり、乳(ミルク)というのは体内の血の変形したものでもあるという。実際的な面でいえば、父の影響や母の乳といった、不思議で大事な”ち”によって人は育つものだということになるのだろう。親は大きく、子は小さいものだとすると、父や母(乳)といったような、不思議で大事なものである大きな現象に、子はその一部みたいなかたちで常に包摂されている存在だということでもあるのだろうか。
現実の親が嫌いな人なんかで反発をしているケースであれば、じっさいの親にとって代わるような別のよりよい父や母の乳となりうるものであるような滋養となる”ち”を、探し求めることになったりしそうだ。なにが当人にとってのアクチュアルな”ち”となりうるかというのは、人によって変わってくるものなのかもしれないし、いい形で見つけうるかどうかというのも、かかる時間はまちまちである、という側面もありえそうだと思った。(中西進氏:万葉学者)

省察

「省察を生むのは痛みです。年齢ではなく、ましてや髭でもありません」(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹)

テレビで、朝日新聞の記事の撤回をめぐる番組をやっていた。朝日新聞は、吉田証言とよばれるものにかんする記事を虚偽とみとめ、32年ぶりに撤回したという。従軍慰安婦の発端ともいえる、韓国の海女のひとのいるちいさな島(?)にテレビの取材がいったところ、現存する海女の年配のひとたちは一様にみな、強制連行された話などは聞いたことがない、もしそうであれば、狭いところだし、知らないはずはない、といったコメントを言っていた。
連行されたひとたちが当時働いていたとされる工場は、とうぜん女性の労働者であるはずだが、テレビの取材によって、じっさいには力のいる仕事で男性がはたらく工場であったという。取材に応じた現地の人たちは、とても率直なコメントの様子だったと感じた(番組の操作が入っているのかもしれないが)。これは、吉田証言といわれるものが虚偽であったとする朝日新聞のあたらしい見解を裏づけるもののようだった。
従軍慰安婦における強制連行とは、それが本当にあったのかなかったのかというのは、フィクションみたいなものも入り混じってしまっているようだから、断定できるものではないということになるのだろうか。かりに(部分的に)フィクションであったとしても、それを信念みたいなふうに既成事実化してしまっている人もいるということであれば、シリアスな問題であるのだろう。日本人の全体の人権というか、風評もそこなわれてしまっているところもまたあるから、ややこしいところがあるというか、複雑になってしまっている側面があるし、捨ておけないものでもある。
強制と自由意思ということで、厳密にではなく、広い意味で強制ということをとらえることも可能だという。広い意味で強制というのをとらえてしまうと、どこまでも広がってしまうものでもありそうだ。強制力というのはなんらかの形で、社会のなかにいるものにかかっているものだろうから、拡大解釈してしまうと誤解(曲解)をうむ余地が生じかねない危惧があることもたしかだ。
この問題というのは、なんらかの形で、”おのれ側の醜いところを見ざるをえない”というところがあって、それにフタをしてしまおうとする傾向があるのではないか、と思った。日本の隣国である韓国などの立場に立てば、日本は加害者であり、韓国は被害者であるとすることから、(部分的な)フィクションをあたかも既成事実であるかのように思いこんでしまっているところからくる醜さみたいなものに、フタをしてしまっている結果になっていそうだ。
世界に目を転じれば、日本(だけ)があたかもこの問題において、レイプ国家であるという見方がされることがあるようだが、なにも軍と性の問題というのは、日本にかぎったことではないというのが、大阪の橋下徹市長のスタンスだ。日本が(悪い意味で)特殊な国であるとする見方は、たとえばアメリカやヨーロッパ諸国などの西欧の国の、自分たちの(近)過去の醜いところにフタをしているというきらいがあることもまた事実だろう。国が主体となって強制連行したということで、日本を(悪い意味で)特別視することで、自動的にというか、結果的に自分たちの見たくない良くないところにフタをしていることになるわけだ。国でなく、民間であったとしても、性労働者の方たちの管理が万全であり、完全に配慮がいきとどいていたと考えるのは、戦争というひどく混乱した状況においてはむずかしいのではないか。
だれしもが、イノセントな、ピュアな純な存在でありたいというのは、願望としてあるのかもしれない。痛みというか、過去の醜さみたいなところにも、目を向けていくことが、省察ということをするのであれば、必要になってくるのかもしれないけど、認めたくないフタをしたいこともまたあるから、むずかしいことでもありそうだという風に思えた。

横断

外で道を歩いているとき、なるべくなら横断歩道を渡ったほうがよい。横断歩道まで行くのがめんどうなときは、車道を横ぎって渡ることがあるけど、それだと車にひかれてしまうリスクがある。もし歩いているときに車にひかれてしまっても、それが横断歩道の上であれば、歩行者優先だから、たぶん法に守られているからいちおう安心なのではないか、というのはありそうだ。
うろ覚えだけど、こんな話があるのを思い出した。フランス人は、歩いているときなんかに、信号を信用しないで、自分の判断で道を渡るというのである。たとえ信号が赤でも、自分が大丈夫だと判断できれば、渡ってしまうというわけだ。いっぽうドイツ人は、フランス人とはちがい、必ずといっていいほど信号の合図を守って道を渡るという。車の交通がすいていて危なくなさそうでも、赤なら止まっているし、青なら渡るというわけである。
日本人は、ドイツ人のようなタイプが多そうだ。といっても、いろんな人がいるわけだし、信号が赤でも渡ってしまう人もいるし、横断歩道ではなく車道を平気で渡れる人もいそうだ。ケースバイケースで、同じ 1人のひとであっても、気分によって法のきまりをわりと遵守するような日もあれば、用事で急いでいるかなにかしてついショートカットしたくなる気持ちの日もあるのだろう。
フランス人は、知的だから、自主的に判断をするのが得意なので、それが信号のある横断歩道においても発揮されているというわけだろうか。フランス人だけではなくて、たとえば中国人も、車の走行の合間をぬって道を横断するなんていう風習の話をテレビ番組で聞いたことがある。片側何車線にもなっている広い幅の道を、中国人はその場の機転(?)によって歩いて渡っていくというのは、勇気があることの証だということのようだった。この勇気は、よく言えばそうだが、悪く言えば無謀さであるということでもありそうだ。中国は商売の国だから、相手(車の運転手)の足元を見るのがうまいので、いざという時は車が止まってくれるものだという心理的カケヒキの感覚がはたらいている可能性もなくはなさそうだ。
おなじ日本人であっても、信号が赤でも渡っている人がいたら、その人はフランス人タイプかもしれない。また車道を横ぎって渡っている人がいたら、勇気のある中国人タイプかもしれない。おそらくおおかたの日本人は、信号の合図が赤だったらしたがって止まっているものだろうから、それはドイツ人タイプであるということになるのだろうと思った。

バイク

白バイが、サイレンを鳴らしながら、道路を走ってきたと思ったら、そうではなかった。白バイではなくて、東京消防庁のレンジャー隊が乗る、赤い色のオフロードバイクだった。山とか川のある地域だと、このバイクは、ときどき道路を走っているのを見かけることがある。とてもかっこいいと思った。消防庁のバイクは、オフロードタイプだから、アウトドアっぽくて機能性があるせいか、デザインの無駄みたいなのがないため、削ぎ落とされたよさがあるからかもしれない。いざというときの頼りになりそうだと思えた。