石
徳川夢声という人の、「夢声対談」というものの中に、こういう話があったそうである、それは石屋がとても大きな石をどうやって 2つに割るかというエピソードで、石屋はその大きな石を、小さな金槌をつかって、ある一箇所だけをえんえんと叩き続けるそうである。えんえんと何時間もたたき続けていると、やがてある一瞬の瞬間に、パカっとその大きな石が 2つにみごとに割れるのだ、ということだった。
…この話は、職人である石屋が石を割るというものであるけど、それ以外のいろんな物事にも、もしかしたら当てはまるところがありそうだ。たとえば、一般的にいわれる地道に努力することが必要な物事などである。なにかの試験を受けるのでも、それの合格にむけて、こつこつと勉強などを積み重ねていくことが、やがて石を割るというような自分にとっての大きな成果へとつながっていく、ということが考えられそうである。
…石を割るということについて、ふと少し別な面で考えてみると、自分が割ろうとしている石がもしあったとすると、その石とは改めてみるといったい何なのだろうか、という風におもえた。そもそも、自分は石屋でもない(職人でもない)者だとすると、石を割るということは他者から特に要請されているわけでもないし、とくに自分が石を割るということに対してまわりからの特別な需要があるというわけでもない。それでも自分が石を割ろうとするということは、ただの強迫的な観念への囚われなのではないか。そしてかりに、石を割ることがいつか達成できたとしても、そのことに一体なんの具体的な意味があるというのだろう。…いや、自他ともに、何の意味もあるはずがないかもしれない。
…石屋が大きな石をこつこつと割るというエピソードは、一般的にいえばちゃんとした道理であるといえそうである。しかし、別な部分でみると、社会的になんの需要とも供給ともつながっていないような、まったくの不毛な石に似た、しかし石とはかけ離れたような実体をもつ物体を割ろうとするような、そのような行為におちいる可能性ももしかしたらありえるのではないか。そしてそこには、石屋が大きな石をこつこつと割るような、何の感動も含まれていないかもしれない。もしかすると、人間というのは、そのような意味(道理)を追いかけるものでもあるし、また逆に、無意味(無理)を追いかけてしまうようなものでもあるのではないか、という風におもえた。