保守

保守とはなにか。朝のテレビ番組のモーニングバード!で、保守というのについての話があった。自民党で、古くから保守の議員として長く活動しているという人がでていて、そもそも保守とは、文明が開化してからの 100年くらい昔からを指すものではなくて、もっとさかのぼって大和朝廷などのころまでを見ないと、本当(の愛国)とはいえないのではないかと指摘していた。
たしかに、ふつうでいう右翼や保守というのは、せいぜい明治時代や大正時代といったころの、戦前の日本をとりもどすという意識であるという風に考えることができそうだ。富国強兵みたいな価値観であるだろう。しかしほんらいの保守とは、もっと歴史的に古くて長い視野みたいなものに立っていて、そこからくる大局観であり、外国の文化を広く受け入れる寛容性をその根本となすものというわけだ。いたずらに近隣の外国および外国文化を敵視するものではないことはたしかだろう。
ほんらいの保守である、ずっと以前までさかのぼった日本のあり方ということになると、必然的に国土もいまより狭まるということがいえるのではないかと思った。というのも、そのころの日本は、沖縄および北海道はそれぞれ独立したところであったということがあり、沖縄は琉球王国であり、北海道はアイヌ民族の土地であったので、それらの地域を除いた本土のみを日本と指すべきである。一説によると、江戸時代に薩摩藩が沖縄をその支配下に置いたということもあるようだから、ある意味ではつい最近になって日本に加入したということもいえなくはないのだろう。
国土というのは、国のアイデンティティーの根幹のひとつであるといわれる。そのため、ほんらいの保守ということであれば、その国のアイデンティティーである国土を、いまよりも狭いものである、本土のみを前提にしたものであるという風にする必要が生じそうである。
いちがいに、歴史を深くさかのぼればさかのぼるほど、より正しい見方ができるとは言い切れないだろう。古ければ古いほどよいというのは、近現代を批判しこき下ろすための下降史観といわれるものにもなりかねない。歴史からみて浅い視野であるほど、たしかに視野が狭窄であるとはいえそうだが、だからといって間違っているという風に頭から断定できるものではないだろう。
国土はたとえ国のアイデンティティーの根幹だからといって、広ければ広いほどいいかどうかはわからないけど、ただほんらいの保守ということで、大局的な見方をすることによって、かえって国土の想定がいまより狭まってしまう可能性があるということは、何となくシニカルな感じがしてくるような気がした。

空気

KY である、空気が読めないやつ(異端児)も、そろそろお笑いで出てこないとダメである。テレビ番組のワイドナショーにおいて、ダウンタウンの松本人志氏がそう述べていたのを、YouTube の動画にて閲覧した。お笑いにおいて、KY である空気が読めないやつが出てくることが望まれるが、反面で、オレがというような自我の強い発揮というのは、「あいつは空気が読めない」というマイナスのレッテルをつけられてしまうリスクがあるということだった。空気が読めることが、有能さの端的なあかしのひとつというわけである。
いまは、お笑いが全体としてチームになっていてパターン化して、団体コントのようになってしまっているという。それはそれでいいことではあるが、個がしのぎを削りあう戦国時代のようではなくて、いわば平安時代ということのようだ。その平安な和を乱すような異端の人が出てくるのが、視聴者のバラエティーにたいする飽きを解消するために必要である。お笑いというのは、パターンを全部崩していくことがいるため、たとえば「オレが○○する」と言って、その期待(前提)を示しておいて、逆にその前フリというものを裏切って○○しないというふうにして、ぜんぶを意図的に裏返しにしてオチにしていかないといけないのが難しいということだった(サッカーでは、試合のなかでフリーキックを蹴ると強く主張して、キッカーになったけどじっさいには蹴らないという)。潜在的な規則(コード)みたいなのが確固としてあって、それによって具体的な発言や行為などが強く制約をうける、ということだろうか。

人間性

しつけの過度にきびしい家があるとすると、親は子どもをある意味でははじめから信用していないということになりそうだ。人間のなかには、自然があるといい、この自然である人間性(ヒューマン・ネイチャー)から人間(ヒューマニティー)を救い出すことがもとめられるのだと、作家の三島由紀夫氏は述べていたようだ。人間のなかの自然は、自由だから何をしでかすかわからないものというわけだ。
しつけの過度にきびしい家というのは、親からすると、子どもというのは、人間のなかの自然である人間性(ヒューマン・ネイチャー)そのものだという風にみなしていることになりそうである。そのものだという所までいかなくとも、子どものなかの人間性(ヒューマン・ネイチャー)の比重がかなり高いように割合を見積もっているといえる。
そこから人間(ヒューマニティー)を救い出すために、過度に干渉したり枠にムリに当てはめたりするということがありえる。それが裏目にでてしまうと、救い出すどころか、ただのマイナスな内的な抑圧となって残ってしまう懸念がある。抑圧というのは、その後にかならず反動がくるから、より人間性(ヒューマン・ネイチャー)が荒ぶってあらわれ出てしまう事態が想定できる。あるいは消えない心的な傷ともなりえる。
親が子どもをはじめから信用していたり、またはフレンドリーな間柄であるとすると、そこには人間(ヒューマニティー)としてのつながりが直にあるということがいえそうである。あまり人間のなかの自然の部分である人間性(ヒューマン・ネイチャー)を意識的に押さえつけられたり、または直視することの経験がないほうが、いまの時代においてはむしろスムーズに成長することが可能なのかもしれない。

信号

原動力は怒りである。ノーベル賞受賞時の談話のなかで、そう語っていたという、中村修二氏は、怒りであるアンガーがその行動のもととなっていたようである。開発の対価が、開発者に正当に保証されないというのは中心的な怒りであったというが、別のアンガーのひとつとして、日本における警察の利権のからくりにも以前から着目していたようだ。発熱電球式の、これまで一般的だった道路信号の電球とりかえ事業が、警察の天下り先として一手に引き受けられていたというのだ。
道路信号の電球は、急に切れたら事故を生む可能性もあってあぶないから、余裕をもって交換されるということで、日本全国でそれが警察の天下り団体によっておこなわれていて、利益をだいぶ上のせしたかたちで独占的に委託されていたという。
このあり方はまずいのではないかという風に感じていたという中村修二氏は、青色 LED の開発の成功によって、従来の発熱電球式の信号が、LED にすべて切り替わることによって、寿命が一気に長くなることで、警察のよくない癒着構造のひとつを破壊することができるのではないか、という風に考えていたそうである。(久米宏)

カセット

専門用語や外来語というのがある。それが、カタカナ英語みたいなものだと、和製英語ということになるのだろう。頭がよくないせいか、なんとなく、ありがたいような感じをうけるものである。その語のあらわしている内容というものが、ほんとうに意義があるものなのか、それとも取るに足りないようなものなのか、ということを判断することが大切になってきそうだ。そこには、カセット(宝石)効果とよばれるものがはたらくと考えられる。たとえば、日本語で(何らかの観念の)想起、といわれれば特に変わったことはないけど、それをフラッシュバック、という風に言ったら、なんとなく響きとして特別なものがありそうな感じがしてくることがあるかもしれない。
フロイトの精神分析学というのがあって、独自の用語や概念が使われているが、それをさも特別なもののように、ありがたがるみたいな感じでいる人に対して、たしなめている学者の人の意見をみかけたことがあったのをふと思い出した。フロイトの精神分析学というのは、日本人からしたら、外来のものであるから、ありがたがったり、オリジナルな特別なものだとみなしたとしても、そのあり方自体はふつうの凡人には自然なので、責められるものではないといえそうだ。
ただ、ある学者の人に言わせると、なにも特別なことを言っているというわけではなくて、昔からの知恵のごときものを、フロイトは自身の臨床もふまえて、自分の学説として展開したということにすぎないというのである。したがって、フロイトの精神分析学とは、いわば昔ながらの人間にたいする常識や知恵と、実質的になんら変わりうるものではないというわけであった。
カタカナ英語みたいな、専門用語や外来語というのは、そこにカセット(宝石)効果がはたらくというのがあることはたしかだろう。なにか中身がたしかにあるというのではないのに、さも意味深いことを言っているような気にさせることがありえる。思い込ませたり、信じ込ませたりといった、ないものをあるとするような観念みたいなものだとすれば、その語(専門用語や外来語)は、警戒をもってして対峙したり、ときには否定的に受け取ったりしたほうがいい場合もありえそうだ。臨時雇いをアルバイトと言い換えたりするような、印象操作に使われることもあるだろう。
いっぽう、たとえカタカナ英語であって、そこにカセット(宝石)効果がはたらいていたとしても、それが意味するところは、昔ながらの知恵みたいな、ごく当たり前なものを指すというケースもありえそうだ。語(専門用語や外来語)がたとえ目新しくても、内容はごく当たり前なことを指しているとすれば、同じことを別な新しい言い方や見方で、言いあらわしかえたのだということがいえそうだ。たとえ意図的な印象操作がおこなわれていても、知らぬが仏であり、現実を直視しないほうがハッピーなこともあるだろう。とすると、ポジティブな側面があるといえ、それほど敬遠したり警戒したりする必要もないのではないか、という風に思った。
けっきょく、当てはめられた語を、ふさわしいと感じるか、トンチンカンだと感じるかは、受け手によってちがってくる可能性がありそうだ。おもて向きにまどわされずに、中身や内容をきちんと見抜けたほうが、より洞察力があるという点では優れていることはたしかだろうけど、個性や経験のちがいによっていろんな受容がなされるとすると、いちがいに優劣はつけられないかもしれない。

フタ

その話題にはふれないように、という要請みたいなものがある。有名人が、マスメディアにおいて、問題提起などの話をするときに、それにふれさせないというものである。これを、はたして言論統制という風にいえるのだろうか、とちょっとだけ疑問に思った。たとえば、ある有名人が、放送のなかで、自分の持論として、原発の廃止というものを訴えようとしたところ、放送局側がそれにストップをかける、といったようなことがおこるそうである。
放送局側のおもわくとしては、言論を統制したいというようなことであるよりは、むしろよけいなトラブルを引き受けたくないというか、引き起こしたくない、という心理みたいなものが働いているのではないか。放送の内容を視聴した人のなかから、けしからんといったようなことで、怒りのクレームがくるかもしれないからである。
あるひとつのことを、放送などにおいて、問題提起として発信したとすると、それだけが一時的に目立ってしまうといったことがありえる。そうすると、もしかするとその問題提起をした勇気にたいして、賛意というプラスの影響がおこるかもしれないが、その反対にバッシングなどのマイナスの反影響ももたらされる可能性がある。そうであるなら、最初から、問題提起などをせずに、当たらず触らずの姿勢でいたほうが、安全性という点ではよりよいことはたしかである。放送というのは、公共のものだということもあるからだ。
言いたいことはあるけど、みんなが我慢しているのだから、その和を乱さないようにしたほうがよい、という価値観が根底にあると考えられる。問題提起をしてしまうと、余計なことをなるべく言わないという空気によってつくられた社会的な和を乱す可能性があるのだ。横並びをもってよしとする、ことなかれ主義ということだろう。そこから、臭いものにはフタをしておこうという意思決定の傾向にもつながってくるということができそうだ。フタを開けようとする者がいたとしたら、それによって乱されてしまう和を危惧して、思いとどまるように要請をするということになる。
日本の放送局である NHK では、なるべく放送の内容を中立的にするようにという定めがあるそうである。いっぽう、聞くところによると、今ではなくて、ひと昔前のことかもしれないんだけど、海外のイギリスでは、国営放送(BBC)の方針として、できるだけいろんな価値観の番組を、政治的にいえば右から左まで、様々をとりまぜて放送していくというスタイルがとられているのだとか。おなじ中立でも、日本の NHK では、簡単にいえば、臭いものにはフタ方式とでもいえるような、イギリスのやり方とは逆のあり方がとられているということがいえそうである。もっとも、中立とは、あくまでも理想としては、ということで、現実には難しいのではありそうだけど。
どちらが健全であるかというのは、文化のちがいもあるし、はっきりと断言することはできないだろう。仮定の話として、もしイギリスのように、日本の NHK も、政治的にいえば右から左まで、いろんな内容の番組が放送されるようになったとしたら、視聴者の一人ひとりが、自分たちの好みというか、信条みたいなものを認識する必要に迫られることになるのだろうか。ちがうものに対する許容性や、シリアスをいなすユーモア感みたいなものがあらかじめないと、そういったスタイルになじむことはできにくいと言えそうである。

火山

日本は、火山列島ともいわれるくらい、火山があるところだという。長野県の御嶽山の噴火をふまえて、これから火山の被害に出あわないようにするためには、「火山に登らないことですね」とは、鹿児島大学准教授の井村隆介氏のコメントであった。いわれてみれば、たしかに当たり前といえば当たり前の意見ともいえそうである。火山というのは、自然界に存在する、人間にとって脅威ともなるようなもののひとつを指すといえそうだ。
火山が噴火をするというのは、人間にとってはきわめて危ないトラブルにつながりえることではあるけど、火山自身にとっては、あくまで自然な出来事というか、ふるまいみたいなものでもあるのだろう。コントロールしたり制御したりするというのは無理だし、観測などをつうじて、客観的に事態を正確に予測するということも、じっさいには難しいことであり、限度があるということも明らかにされているようである。
ことわざでは、「君子危うきに近寄らず」というものがある。通常、火山といえば、自然界に存在するものを意味しそうだけど、その場合においては、仏教でいわれる器世間(自然界)の中のものだといえそうである。意味を広くとって、山や川などの自然界である器世間のみならず、もうひとつの世間である、衆生世間である人間の社会の中においても、もし(自然界における)火山ということが当てはまるのだとしたら、それにたいする対処としては、先の「火山に登らないことですね」というシンプルな意見が同じようにあてはまる場合もあるのではないか。
その場合の火山とは、自然ではなくて人工ということになるけど、人間の世の中というのは、複雑なものがあるから、自然界とおなじように、正確で客観的な予測は困難であるということがいえそうである。経験などによる情報を総合した主体的な自己判断が、最終的にはものをいう可能性がありそうだ。

フランケンシュタイン

フランケンシュタインというと、不気味なかっこうをした怪物がイメージされる。その原作というのは読んだことがないんだけど、フランケンシュタインの話について考察されたものを目にした。はじめて知ったことなんだけど、フランケンシュタインというのは、てっきり怪物のことだと思っていたんだけど、そうではなくて、怪物は怪物として別に存在していたのだ。フランケンシュタインとは、人造人間としての怪物を生みだした科学者(伯爵)の名前であった。したがって、フランケンシュタインとは、いち人間であるフランケンシュタイン伯爵のことである。怪物はというと、怪物には名前がないようだ。人間の仲間に入れず、名前も与えられないような、不気味な存在ということであった。
フランケンシュタインという名を目にすると、勝手に脳内でイコール怪物の姿というのが反射して想起されてしまうので、それを手動(?)で補正する作業みたいなものをやるのがちょっとだけうっとうしいと感じた。単純に、響きの問題ではあるけど、いかにも怪物っぽい名前であるというところがちょっとやっかいだ。かってに反射される表象(イメージ)が、過去のすり込みもあるせいか、消えてくれないのである。まちがった思いこみというのは、とてもてごわいと思った。

納豆

納豆を食べていて、ふと思い出したことがあった。AM ラジオの番組のポッドキャストで、以前話されていたことで、食品の賞味期限についての話である。そのときのポッドキャストの話し手によると、食品のなかには、賞味期限が切れたあとくらいに食べたほうが、案外おいしくなるようなものもあるという。納豆は、その一例としてあげられていて、個人的な好みとして、賞味期限がすこし切れた後くらいに食べたほうが、味としては好きだということだった。
納豆というのは、もともと腐っているものだから、むしろちょっと賞味期限の概念に逆らって腐らせたほうが、味わいが増すという意見である。そのために、賞味期限がすこし切れたくらいの時期まで、意図的に冷蔵庫のなかなどで置いておくということだろう。
キムチなんかでも、すぐに食べないでしばらくの期間置いておくことで、発酵が増してきて、酸味が強くなっていくということもあるみたいだ。酸味が増すことが、味のうま味につながるのかどうかというのは、個人個人によってとらえ方が異なってくることもありえそうである。ワインは、きちんとした保管のしかたをしておけば、年代物の古いもののほうがより味の値打ちがあるということみたいだし、これはわかりやすいケースかもしれない。
納豆は、自分のなかでは、あくまでも生鮮食品である、というような固定観念があるみたいだ。もちろん発酵食品だという前提はある。発酵が進んだほうが、味がよくなるというか、深みがでるみたいな説は、一応ないことはないという気もする。
好みは人それぞれなのだろうけど、自分としては、納豆にかんしては、賞味期限に近づいていけばいくほど、味が落ちていくように感じる。アクのようなものが出てくるのだ。できたての、新鮮なときのほうが、フレッシュさや甘みがあるからか、よりおいしいと思える。だから、納豆の食べかたの好みとして、賞味期限をすこし切れた後で、意図的に腐りを促進させるのがいいという意見を耳にしたときは、どうしてもそれをおいしいとは思えないので、ちょっとだけカルチャーショックというか、驚いてしまったことはたしかである。

ヘッドホン

ヘッドホンの音質は、価格によって決まるものだろうか。あんまりくわしくないから分からないんだけど、価格が高ければ高いほど、音質もよいというのがいえそうである。価格が一番わかりやすそうではあるけど、振動板の大きさなんかも目安になるそうだ。振動板であるドライバーユニット、またはダイアフラムというものが、大きいほどそれに正比例して音質も向上するということが、オーディオテクニカ社の出版した本の中にのっていた。具体的には、直径が 50mm くらい以上のものがよいそうである。それくらいになると、本体じたいが大きくなるので、ポータブルタイプのものではないから、かさばりそうなことはたしかだ。