成員

年功序列の賃金システムなんかが崩壊してきている。これは、日本がメンバーシップ型の雇用形態をもっていて、それが機能不全にあるからだということだそうだ。ヨーロッパなんかでは、日本のようなメンバーシップ型ではなくて、ジョブ型とよばれる、職能的な雇用形態が一般的となっているようである。ひとりの人がもっている、あるいは期待される職能にたいして、労働の契約をするということで、明示的で具体的なあり方だということがいえそうだ。
いっぽう、日本のメンバーシップ型では、どちらかというと暗示的で非具体的なあり方といえそうである。会社という組織の一員となることが求められ、それが第一義であり、職能なんかは二義的なものとなってしまうのだろう。日本のハイコンテクスト(空気を読む)な文化の背景があるからだろうか。
会社という組織の中にいることで、そこに所属し続けていれば、だんだんと賃金が上がっていくというばく然とした期待のもとに、いまの多少不満なことや腑に落ちないようなことにも、とりあえず目をつぶろうという忍耐の気持ちをおこすことにつながりそうだ。
日本におけるメンバーシップ型のあり方において、デメリットというかリスクというものがもしあるとしたら、それは何であるということが言えるのだろうか。ひとつには、ゆでがえるシンドロームにおちいることが予想できる。高次学習が阻害されることである。
小さな変調のきざしがあっても、それが日々続いていくものであれば、組織の中にいてはなかなか気がつきにくい。そのうえ、非具体的なメンバーシップという組織との関係性があることで、ぼんやりとした希望的観測のようなものがおこってしまいえるのではないだろうか。気づいたときには、かつては小さな変調のきざしだったものが、とりかえしのつかないくらい大きくなって身にふりかかってくることもありえる。
メンバーシップ型のデメリットとは、”親方日の丸”的な心性からもたらされてくるものだといえそうだ。安定志向ということでいえば、ごく一部の優良大企業とか、そういった組織であれば、そうそうつぶれることもなさそうだから、リスクが小さいということも確かにあるのだろう。
ほんとうは小さい(弱い)組織にもかかわらず、あたかもごく一部の優良大企業のような気持ちでもし成員がかまえていたとしたら、そこには親方日の丸的な心性が悪いほうにあだになって出てしまう可能性もありえる。
リスクを避けるためには、ヨーロッパのようなジョブ型のあり方というのも考慮に入れておくほうがベターなのではないかという気がする。大船にはのれないだろうけど、そのかわり小舟のあり方として、いざというときの小回りがきくという便益もありえそうだ。主体性を発揮しやすそうだ。
かつてたいへん有効に機能して日本の経済的繁栄を築いてくれたメンバーシップ型から、ジョブ型へとあたらしく移行するためには、立て直しというくらいではだめで、たぶん世直しみたいな抜本的な改善をするしかないだろう。そこには痛みも予想されそうだし、そもそも人によってどういったあり方が望ましいかというのは、イデオロギーや価値観のちがいという感じで意見が分かれてくることもありえそうだ。

天丼

いぜん、ちょっと興味ぶかいエピソードを、ラジオでやっていたのを耳にしたのを思いだした。それは、歌手の manami という人のパーソナリティーの FM の深夜放送だったと思う。話し手の実家だったか、それとも知人だったかは忘れちゃったんだけど、ある天丼屋をいとなんでいる人がいて、その当時、あまり売れゆきが思わしくなかったそうだ。
それで、どうすればお客さんが増えるのかという風に思案していたら、思いついたことが 1つあって、それを実践してみたら、活況をえることができたという。思いついたこととは、天丼の見せかたを変えたのだということだった。
天丼といえば、ふつうエビとか野菜や魚などの天ぷらがご飯の上にのっている。それをただご飯の上にのせるのではなくて、ひと工夫して、カットしてみたのだそうだ。1つのエビの天ぷらの具だったら、カットして、結果として 2つのエビの具に見せることができる。見た目には、ボリュームがあたかも増したように錯覚させられる。天ぷらの具の断面もできるから、おいしさもちょっとアピールすることができる。このひと工夫が、お店にお客さんを呼ぶことにつながったそうだ。
おなじ 1つの天丼でも、天ぷらの具をカットするという、見せかたをひと工夫することで、どんぶりの中身はいぜんと同じだけど、アピールする力が増すというのだ。このアプローチは、天丼にかぎらず、他の分野でも応用することができるのではないだろうか。
といっても、たとえば頑固な気質の職人肌みたいな人であれば、質が変わらないだけに、そのような小手先だけの手間をきらったりする場合があるかもしれない。なんでも、商品などを他にアピールするという点では、ちょっとくらいは外見に改善の余地は残されているものだ、ということはありえるといえそうだ。
なにかのことで、あまり思わしくないような、期待を下回った結果がでてしまった場合、それは形の見せ方みたいなのの工夫の改善しだいでは、またべつのいい結果も生じえたのだと、気持ちを切り替えるのもいいのではないかと思った。

べき

「~ねばならない」という風に考えてしまうことがある。心理学では、認知行動療法の論理療法という学派があり、REBT(Rational Emotive Behavior Therapy)ともよばれているそうだ。これによると、なにかと「~ねばならない」とおもう思考は、英語の助動詞 should があてはまり、「~ねばならない主義」とでもいえる。そこから shouldism という造語でいわれるそうだ。このように「~ねばならない」という思考をじっさいの行動に向けて生きてしまうことを、英語の助動詞 must から、musturbation(マスターベーション:本来のつづりは masturbation)という造語でいうようである。「~ねばならない」という思考から脱して、そのままでいることを、「無条件の自己受容(USA:unconditional self-acceptance)」といい、これが望ましいとされる。
「~ねばならない」という shouldims におちいっているときは、ものごとをかくあるべし、という風に固定化して見なしてしまっていることが考えられる。かくあるべしという風に見なすと、ものごとをせまくるしいような視点でしか見ることができなくなってしまうことがありえる。価値がたかい/価値がひくい、といったような二分法で割り切ってしまうのではなくて、肯定的に受容して対象を受けとることもたまには必要だろう。裁くばかりではなく、尋ねることも有益だということを、忘れないようにしたいと思った。

いうこと

やることと、いうことがある。やることとは、行動のことといえそうだ。いうことというのは、発言や主張のことを指せそうだ。やることということに関係があるという風にいえるとすれば、たとえば、やるからいえる、やったからいえる、という風な感じになりそうだ。
何かをやったからこそ、それに対する発言の権利があるということだ。経験者は語る、というのがその例である。うら返していえば、何かをやっていないのであれば、発言する権利がないのであり、黙っていなければならない(引っこんでいろ)、ということになるだろう。発言とは経験者(従事者)や達成者の特権ともいえそうだ。
やることということとの間には、関係がないのだ、という風に考えることもできるのだろうか。やることとは行動だから、それはフィジカル(肉体的)なものだ。いっぽう、いうことというのは、フィジカルなものではありそうだけど、それと同時に非フィジカルなものでもありそうだ。いうことというのは、抽象的な側面がありそうだ。抽象的であるということは、メタレベルということでもあるのだろう。だから、行動の次元であるフィジカル(肉体)とは次元を異にしているという風にとらえることもできそうだ。
やることということとの間には、関係があるのだと考える場合、何かをやったからいうことができる、という風になりえる。ここでは、接続詞である「から」というのが、やることということの間をつないでいる。「から」がなければ、2つの間はつながらないといえそうだ。
接続詞の「から」というのは、やるというという具体的なものをつなぐ、抽象的な存在といえそうだ。抽象的であるということは、理性的な性質をもっているということになるのだろう。理性というのは、超経験的なものでもあるということらしいから、それでいうと、”やったからいえる”というのは、じつは矛盾しているということになるのではないか。自己否定を内包しているみたいな感じがしそうだ。
矛盾があるから、それですべてが間違っているとか、意味がないとかいうことはできないのだろう。たぶん、半分は正しいが、半分はまちがっている、といったことがいえる可能性がありそうだ。”何かをやった人間だけが、発言することができる”というのは、半分は正しいが、半分は誤っているということがいえそうである。やることと、いうこととは、独立したものであり、別々に切り離して想定したほうが、現実のリスクが低減するかもしれないし、混乱が少ないので、場合によってはいいのではないか、という風に思えた。

自由

表現の自由が守られている場合、それは平和な世の中のあらわれであるといえるのだろうか。しかしこういった可能性もありえるのではないかと思った。それは、あるひとが表現をするために、敵が必要となる場合である。動機みたいなものとして、仮想の敵を必要とするということである。仮想の敵を必要とするような状況というのは、捨て身の場合が考えられそうだ。捨て身というのは、どちらかというと子どもの発想であるのだろう。窮鼠猫を噛むということで、ネズミは子どもで、ネコは大人社会だ。または、ネズミは子どもと大人の移行期の中間的な時(若もの)というのがありえそうだ。
表現の自由を守るというのは、大人の世界の、すでに持っている者の、保守的な態度であると考えられそうだ。そこでは、とくに仮想の敵などは必要としなさそうだ。ところが、まだ持たざる者が、なんらかの事情で捨て身になるときに、そこには仮想の敵が必要とされそうだ。
想定される仮想の敵というものがぼんやりと内的にあると、そこにたまたま外的な現実の敵が形となってあてはまってしまうことがありそうだ。あるいは、むりやりにでも実在化させてしまうこともありえそうだ。公権力などが、そこに当てはまることもあるのだろう。持たざる者のとるスタンスは闘いであり、すでに持っている者のとるスタンスはものごとの沈静化や鎮圧化ということになりえそうだ。
見方をかえれば、その両者の対立がある以上、万人が納得できる表現の自由とはもしかすると永遠に訪れないものなのではないかという気がした。いわば、満足できるくらいの表現の自由が保証されているかどうか、という妥協的な判断ということなってしまうのだろうか。

量子

さいきん、クワンタム・ジャンプ(quantum jump:量子的飛躍、量子飛躍)という言葉が少しだけ気になっている。といっても、何となくかっこいいという雰囲気的な理解を超えないのだけど。

フランスの耳鼻科医であったアルフレッド・トマティス氏によると、音には大きく分けて 2種類のものがあるという。1つは放電音であり、これは低周波で、聞く者を疲れさせて、気分を損なうようなものである。もう 1つは負荷音であり、これは高周波に富んだもので、心身にとってプラスにはたらくものである。
低周波である放電音は、体の部位でいうと、背骨の下のほうにある尾てい骨あたりに関係しているそうだ。高周波に富んだ負荷音は、背骨の上のほうにある延髄を刺戟することで、自律神経の副交感神経が活性化するという作用が期待できるという。
耳は脳の活動ともつながりがあるといわれ、いい音の聴覚刺戟によって大脳の電位を高めるといわれている。トマティス氏の聴覚セラピーでは、おもに高周波である負荷音をつかって、耳の働きを改善させるようにするものである。(参照書籍:『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』キャサリン・ル・メ 左近司彩子訳)

トンネル

トンネルのなかを歩くのは、ちょっと怖い感じがする。中が短かければまだいいが、中途半端に長い距離だとなおさらである。自分はぼっちでいることがいつもなので、ひとりで通過するから、そうじゃなくて同伴者がいればまだ多少はましなんだろうなあ、という気がする。
トンネルというのは、車で移動するのが多いから、自転車に乗って行くならまだしも、そこをひとりで歩いてとぼとぼと行くというのは、あまり主流じゃないというか、トンネルの設計の想定の中心思想(?)から除外された行為なのだろう。
トンネルというのは、そこが目的地になることは少なそうだ。A 地点から B 地点へ向かう、その途中にたまたまトンネルがあり、通る必要があるから通過するにすぎないものでありそうだ。中はライトが照らされているとはいえ、薄暗いし、車が多く通れば、走行する車の音が反響して聞こえてくる。そして上方に変な巨大なファンみたいなのが回っていることがあって、ふつう町なかで見かけることがないせいか、怖い感じが増してくるようだ。
トンネルの中というのは、少しだけシュールレアリスムな空間だといえるのだろうか。ちょっと大げさかもしれないけど、何となく異界といった感じがしてくるようだと思った。

情報

「情報といふのはもともと危険なもので、要するにデマと紙一重ですからね。天才と気ちがひの関係みたいなもので」(『裏声で歌へ君が代』丸谷才一)

情報を得ることで、それが行動に結びつけばよい。行動は実を生みだすものだ。だけど、情報を得ることで、かえって行動できなくなってしまうこともありそうだ。うかつに情報を得ることよりも、かえって何も知らないでいるのに近いほうが、行動がとりやすくなるということも考えられそうである。子どもがそのいい例でありそうだ。
極端にいうと、たとえば”行動をしろ”だとか、学生であれば勉強するのが本分だから”勉強しろ”だとか、そういった”○○しろ”というメッセージは、行動をうながすものだと想定できそうである。その行動をうながすメッセージは、それ自体がひとつの情報でもあるのだろう。情報であるということは、それによって行動に結びつくようなものであればいいが、そうであるとはかぎらないのが現実でもありそうだ。
なかなか行動をとりづらいというのが自分の欠点となっているのだろうか。要因としては、頭でっかちになってしまっているからだろう。頭でっかちといっても、それほど広く物を知っているわけではないのだけど。非行動的な自我というものと、行動すべきであるというフロイト学説でいわれる超自我といったものが、緊張関係になってしまっていることが考えられそうだ。
ただただ何も行動をとらないで、見ているだけの傍観者であるのだったら、それは自分のなかの自我のありように囚われてしまっているということになるのだろう。そこから脱して、行動を少しでもとるようにすることで、自分のなかの古い自我を壊すことにつながっていくものだといえそうだ。ただ、問題は行動をとるうえで、それが自然なものであるのかどうかということになりそうだ。不自然な行動というのは、自分でも見るに耐えないような気持ちになってしまうからである。
自然な行動とは、自然な情報の受けとり方によるのではないか、と思った。まちがった情報の受けとり方をしている場合、それをうまく修正しながら行動をしていければ問題はなさそうだ。だけど、そういう修正がきかなくて、かたくなになってしまっていると、不自然な行動として外にあらわれ出てしまうのではないか。
なぜ不自然な行動になりがちになってしまうのかというと、それは自分の場合、自我というものが非行動的になってしまっているからかもしれない。および腰というか、傍観的といってもよさそうだ。自我があらかじめ得ていた断片的な知識(情報)で見ているために、行動をとるときに分裂してしまいがちになるのだろう。不自然な行動になってしまうのを少しでも防ぐには、自分のなかで断片的な情報を絶対視するような態度を改める必要があるのだろう。
もし知識と行動というのが 2つに分裂してしまったとしたら、それらを統合することは可能なのだろうか。この 2つが分裂してしまうというのは、知識にもとづく傍観(意識)と行動(肉体)という、それぞれの次元が異なっているための混乱ということがありそうだ。内部で分裂してしまっているということは、破綻しているということなのかもしれないから、ヘタにとりつくろおうとしてしまうよりも、その破綻を忘れてしまうよりほかにしかたがないのかもしれない、と思った。

人はだれでも死ぬといわれている。死というのは、誰にでも、一回きりのものとして訪れてくるということだろう。ただし、その一回きりの死というのは、今いきている生というものとうまくなじまないところがあるという。生の側からみたら、死というのは、見ることもできないし、体験することもできないものだというわけである。見ることができるのは、自分の死ではなくて、他者の死(死体)などだけだろう。
そういうことから、いつまでも自分にはやって来ることのない(ように思える)ものが死ということなのだろう。うろ覚えなんだけど、美術家のマルセル・デュシャンという人は、口ぐせとして「いつも死ぬのは他者ばかり」ということを言っていたそうだ。
ふつうに言われているような、一回きりのものである死を、たとえば毎朝意識的に自分に言い聞かせるなんていうアプローチ法もあるようだ。死ぬのは今日なのか?なんていう風に自分に定期的に問いかけることによって、毎日を自覚的に生きていくことができるようになりそうだ。今日不慮の事故などで死んでしまう可能性というのは、誰にとっても、ゼロ%ではないこともたしかだろう。
一回きりの死というのが、もし質であるとしたら、それとはちがった量としての死というものもありえるのだろう。前者が定性的であるとしたら、後者は定量的だというわけである。そして後者の定量的な死である、量としての死とはいったい何なのだろうか。
それは、たとえば人間は夜寝て朝起きるということをくり返すものだから、夜寝ているあいだは死で、朝めざめるのが生であると言い換えることもできそうだ。夜寝ることを人生のなかで、子供のころから何度となくくり返すわけだから、その点でいうと、何べんも死んでいる(死んできた)ということになりそうだ。そして、もう二度と目覚めることができなくなった時が、最終的な死となることになるという。
仏教においては、なんでも”刹那滅(せつなめつ)”という考えかたがあるという。これによれば、人間は一瞬一瞬(一刹那)のあいだに、消滅と生成をくり返しているという。消滅しているときは死で、生成しているときは生であると言い換えられそうである。眠りとめざめと同じようにして、一瞬のあいだにいったん消滅したものが二度とふたたび生成することができなくなったときに、最終的な死がやってきたのだということができるのだということだった。
ふつうに考えられているような、一回かぎりの死である、定性的な死というものには、不安がつきものなものなのだろうか。もしそうであったとしたら、その不安を多少なりとも減じるためのひとつの方便みたいなものとして、死を定性的なものから定量的なものへと認識をずらすみたいなことが可能なことがありえそうだ。定量的な視点からいったら、われわれは生きながらにして何べんとなく死んでいるわけだから、それに対する慣れやなじみみたいなものも生じやすくなりそうである。だから、量的に見たら、死にたいする慣れがはたらきやすくなりそうだ。
もっとも、死恐怖症みたいな感じで、どうやっても死というものが恐怖にしか感じられないとしたら、質から量へという風に自分のなかで認識をずらそうとしてみたところで、あまり効果はないかもしれないけど。ただ、ほんの少しくらいだったら、”これまでに何べんとなく自分は死んできたのだ”と見なすことで、気休めくらいにはなる可能性はなくはないだろう、と思った。