IQ

人間の体にある遺伝子は、およそ 2万 5千個にもおよぶという説があるようだ。そしてこの遺伝子は、通常思い浮かべるような静的なものではなく、もっと動的(ダイナミック)なものであるという考え方があるという。これは、科学者の村上和雄氏の説いているものだそうだ。たとえば、人はいまいる場所ではなく、なにか新しい環境に身をおくことで、自分のなかの未知の遺伝子が作動(スイッチ・オン)する可能性があるという。
遺伝子とはちがうけど、知能指数である IQ というのも、ふつうは静的なものとしてとらえられていそうだ。たとえば IQ が低い人といえば賢くないものだし、逆に IQ が高い人というのは天才がイメージされるわけである。この IQ も、静的なものではなくて動的(ダイナミック)なものだ、ということが、脳機能学者の苫米地英人氏によって説かれているようだ。
たとえば、自分がホームだと感じられる場所にいれば IQ は上がり、反対にアウェイだと感じられる場所にいれば IQ は下がるのだという。つまり、IQとは固定されたものではなく、可変的なものだということだろう。とはいっても、もって生まれただいたいの基本的な IQ の値というのはあると考えるのが妥当ではありそうだ(←ただ、天才とバカは紙一重、ということわざもあるけど)。
社会的にマイナスの行為というのがあるとして、そのマイナスの行為をしてしまうときに、原因となるものが仮に当人の一時的な”低 IQ 状態”にあると考えることはできるのだろうか。広い目で見れば、自分の得にはならずに損になる行為でも、この低 IQ 状態においては、そのようなバランスのとれた社会的(常識的)判断がきかなくなると考えられる。
そしてその低 IQ 状態というものがあるとしたら、それは無意識というものの別名でもあるということになりそうだ。通常は意識によってむやみに顔を出さないようにコントロールされているが、無意識は混沌としたカオスの場であるとされることから、それが顔を出したら、意識である理性の力のおよばない領域に支配されるということになるわけである。
つねに IQ が一定の値であれば、そこにはいちおう一貫性があるといえそうだけど、そうではなくて著しく IQ が下がることが断続的に発生するとしたら、そこには(いち人間としての)一貫性が欠けているといえそうだ。IQ の著しく低いときと、高いとき(ふつうのとき)とのあいだに、混乱が発生する可能性があり、それは(おのおので違った)次元がたがいに分裂してカオス化するという危惧がありそうだ。極端な話ではあるけど、いったいそのどちらが本当の自分であるといえるのだろうか、と思った。

だれにでも、無気力感や虚無感にとらわれてしまうことはあるのだろうか。多かれ少なかれ、または程度の差はあれ、そういった時があるといえそうである。まったく気分の落ち込む時がないような人がいるとしたら、そういった人がうらやましいという気がする。だけど、本当のところは、表向きはそうであったとしても、裏面では落ち込んでしまう時があるかもしれないから、他の人に気持ちが沈んだそぶりを見せないのが上手だということかもしれない。
作家の村上春樹氏が言うには、アメリカの作家であるスコット・フィッツジェラルド氏が”魂の午前 3時”と呼んだものがあるということらしい。この”魂の午前 3時”とは、文字どおり 1日のうちでだいたい午前 3時頃になると、人はしばしば理由なき深い虚無感や無力感にさいなまれがちなものだという事のようだ。したがって、人は午前 3時になるべく目覚めていないようにした方がよいというわけである。もっとも、だいたいの人は、いわれずとも午前 3時くらいには眠っているものではありそうだ。
この魂の午前 3時とは、フィッツジェラルド氏の説にしたがえば、それは 1日のうちで具体的なポイントとして、局在しているといえそうだ。だから、その決まった時間をやり過ごせばしのげるということになりそうだ。この説の紹介者である村上春樹氏も、なるべくその時間帯には起きていないようにすむために、日中のうちにきちんと体を動かすなりして充実した時間をすごしておくべきだ、という意見を述べていたようだ。
自分としては、この魂の午前 3時とは、かならずしも局在しているものではなく、人によっては遍在しているという可能性もありそうだと思った。1日のうちで、たとえば午前 11時くらいにふいに気持ちが深くブルーになる場合もあれば、それが午後 3時になることもあるというわけだ。このように、偶然性によって無秩序化(カオス化)した魂の午前 3時というのがあったとしたら、それは厄介であろうし、昼のなかの闇といったような矛盾したものであり、また病的であるということがいえそうだ。
魂の午前 3時をやりすごすためには、まずはそれを午前 3時というもとの時間(場所)に正しくおしこめるというか、1日のうちでほかの時間に顔を出させないようにもする必要があるのだろうか。そう考えると、ちょっと面倒だと思った。

目線

いったん精神がたかぶってしまうと、なかなか平常に落ち着かせることが難しくなってしまうようだ。それは、自分の心の幼稚さから由来するものかもしれないから、何とか改善したいという気持ちがある。だけど、根気が続かないせいか、うまくいった試しはないことも確かである。
お笑いの南海キャンディーズの山里亮太氏は、イヤな相手を心の内面でゆるす術をもっているようだ。それは、こういったようなものだそうだ、「あいつはイヤな奴だけど、そのイヤなアイツを心のなかで許してやっている自分はとても偉い」という風に気持ちを切り替えるものだという。このように考えることを、山里氏は「勝手に上から目線」と名づけているようだ(←『みんな 14歳だった!』という本にのっていた)。
この山里氏の「勝手に上から目線」というのは、よさそうだと思い、自分も日常で試してみようと思った。自分は日常でとてもキレやすいというか、怒りを覚えてしまうことが多いと自覚しているので、それは切迫したものでもあるといえる。ただ、同時に幼稚という意味で、はたから見たら低レベルで滑稽でもあるかもしれないが。
実践するうえで、ひとつ問題かな、と思ったのは、自分のなかの間違ったポリシー?として、イヤな奴を許すことはできない、というものがあることである。いい人のことを許すことはできるだろうけど、イヤな奴のことを許すことはできそうにないのだ。逆にいえば、(自分が)許すことができないからこそ、イヤな奴なのだというわけである。
だから、それを解決するために、そのイヤな奴を、あたかも精神分析学でいわれる神経症であるという風にレッテル貼りをしたらどうか、と考えた。といっても、神経症という名前はすでに医学的に死語であり、無意味なものであることは間違いがないだろう。いちおう、その意味するところとは、限定されたものであり、こういったものである、「人間は、自分が尊大(卑屈)だと思っていないときこそ、もっとも尊大(卑屈)になっているものだ」。この説(パラドックス)は、精神分析学の岸田秀氏の考えだったと記憶している。
つまり、イヤな奴とは、なぜそれがそうなのかというと、自分が尊大(あるいは卑屈)だとまったく気づいてもいないからであり、だからこそ尊大な態度になっているものを指すというわけである。そのうえで、それをふまえた上で、(心の中で)許してやっている自分は偉い、という風に思ってみようと試みてみる。こうすることで、なんとか「勝手に上から目線」ができないかという風に考えている。
自分は心がかなり狭い人間なせいか、相手を許すということができない場合がとても多いようだ。だから、そんな自分から見たら、山里氏は心が広い人間だという風に思える(実際に広いのかもしれない)。日常で許すということができないとしても、せめてそう試みるくらいはしてみるべきであるという風に思っている。ただ、それが全く不毛な試みである可能性もありそうだけど。

装飾

「装飾(デザイン)とは、お飾りともいうように、空いたスペースになにか消極的にあな埋めする事ととらえられがちだ。だけどそうではなくて、装飾とは、たむけられた花である」(鶴岡真弓氏:多摩美術大学芸術人類学研究所 所長)

悪人

だれでも、ひと皮をむいたら、本性があらわれてくるという部分がありそうだ。いい人でも、ひと皮をむいたら、じつは悪い人かもしれないというわけである。人間には、そのような 2面性がある場合が、少なくないのかもしれないし、それが自然なことかもしれない。
まえにあるテレビ番組で、予備校教師の林修氏が、このようなニュアンスのことを言っていた、「いまの時代に本を書く著者というのは、基本的にイヤな奴に決まっているんです」。その理由として、「なぜなら、もうすでにたくさんの本が過去に出版されているなかで、『オレの意見』を新しく開陳するわけだから、どうしてもイヤな奴にならざるをえない側面がある」ということだった。
たしかに、過去に大量に本が出版されているわけであり、大量の意見がすでにあるなかで、自分が新しく意見を発表するということは、本来あまり必要性のないことともいえそうだ。だから、どうしても新しさを出す面でも、エゴが表出されてしまうといったきらいがあるわけだろう。
この説をふまえると、時代の風化に耐えてきたような古典とされるものは、基本的にいい人(著者)だといえるのではないか。いい人というのは、長く活躍できるものであるという。また、そのようないい人である古典というのは、受け手によって多様な解釈をゆるすものでもあるだろう。したがってそれは、年々歳月をへても、進化していくものである、ということでもあるわけである。
たとえ古典とはいっても、現実的にみたら、過去においていい人が作ったものもあるだろうし、また当時の悪い人が作ったものもあるのだろう。また、現代の人が作った新しいものであったとしても、かならずしもイコールイヤな奴が作ったものだ、と言い切れるものではなさそうだ。なかには現代でも人格者でいい人がいることは間違いがないことだろう。
例外はあるにしても、自分としては、古典がいまに生き残っている理由として、①いい人だから、②年々(解釈などが)進化する余地があるから、というのがあげられると考えてみたい気がする。①の理由は、古典を擬人化してしまっているかもしれないが。ちなみに、この 2つの要因というのは、元タレントの島田紳助氏がビジネスの新書のなかで述べていたことであり、それはこういったものだった、「ある分野で長年にわたって活躍する人には、①人がいい(いい人である)、②年々進化している、という特徴がある」。
林修氏が述べるように、たとえ現代の新しい本の著者がイヤな奴であったとしても、そのイヤな奴である人が作ったものが時代の風化に耐えて、やがて古典となったときには、逆にいい人に変化しうるということが考えられるのではないかと思った。

俳句

自分では日常で俳句をつくることはない(できない)。だけど、「俳句」という曲があって、それを iTunes Store で購入して、聴いたらいい曲だった。これは、シャンソン歌手のワサブローという人の曲だった。はじめは、NHK の AM ラジオで曲がかかっていたのを耳にした。てっきり、ラジオで耳にしたときは、ずっと以前に売られていた古い日本のフォークの曲なのかな、とかんちがいしていた。だけどそうではなくて、2012年くらいにリリースされたもののようだった。
この俳句という曲は、3拍子でほのぼのとした調子であった。伴奏はギターとベースによるものであった。そして歌唱と歌詞がユーモラスであり、なかにじっさいにワサブロー氏が作ったものであるらしい俳句が用いられているのが特徴のようだ。なかでも、”意地と愚痴 おでんに煮こむ 母の夜”という句が、実感がこめられているようでいいと思った。

確認

道を歩いていて、東京都の都バスが走っているのを見かけることがある。たぶん都バスだったと思うけど、もしかしたらちがうバス会社だったかもしれない。そして、その都バス(たぶん)の車のフロント・ウィンドウのところの、運転手のすぐ脇のところに、「確認」という文字が書かれた大きめのカードみたいなのがあるのをしばしば見る。大きめの字で確認と書かれているので、けっこう目立つようだ。あれは、バスの運転手が”ちゃんと私は確認をしていますよ”という安全性の意思表示なのか、それとも”確認をせよ”という他のドライバーなどにたいする警告なのか、どちらなのだろうとちょっと疑問に思った。いちおう検索エンジンの Google で調べてみたけど、分からなかったから、自分のまわりの地域だけの限定されたものかもしれない。

語尾

日本語の文では、最後にくるのは「です・ます」調と、「だ・である」調の 2つがあるとされる。これらを、ごちゃまぜにせずに、どちらか一方に統一することが基本となっているようだ。もっとも、かりにごちゃまぜにしたとしても、とくに駄目だとかルール違反だということにはならないだろう。ただ、もしそれを無作為(無意識)にやったとしたら、何となく統一感がなくて多少変な感じがするかもしれないし、また逆に作為があって(意識的に)そうしたとしたら、その作為がちょっと目につくというか、わざとっぽく感じられてしまう可能性がありそうだ。
作家の村上春樹氏の『村上ラヂオ』という短いエッセイの本を目にしたら、村上氏はこの「です・ます」調と「だ・である」調がミックスした文を書いていて、それが作為的という感じがしないのがすごいと思った。たぶん、村上氏の人格的(内面的)な個性から出ているものだから、自然に感じられるのだろう。もっとも、全体における割合は、9:1くらいで、ほとんどが「だ・である」という語尾で、たまにしか「です・ます」という語尾は出てきていなかったようだ。
かりに「だ・である」が若干ひとをつき放す調子だとしたら、「です・ます」は若干ひとにおもねる(丁寧な)調子であるといえ、その 2つの配合(配置)のあん梅がちょうどいい風になっているから、不自然に感じないというわけだろう。もしそのあん梅がちょうどよくなかったとしたら、途中で心の中で「おやっ?」とひっかかりを感じることになりそうだ。
自分も同じように真似してみたいという風に思ったんだけど、そうしたら間違いなく不自然で作為的なことになって失敗するのは疑いなさそうだ。だから、一般的な基本とされている、どちらかの語尾の調子に統一したほうが無難だし、混乱が少ないということはいえそうだ。もっとも、その前にもっと気にするべきことがあるかもしれない。

親切

作家の吉行淳之介氏の本のなかに、このようなことが書いてあった、「他人に親切にしようとおもうときは、それが二倍の大きさになって手痛くハネ返ってくる覚悟が必要」(『不作法のすすめ』)。他人にたいして自分がよかれとおもって親切をしたら、それがかえってアダになって、マイナスになってはね返ってくることがある、という注意のようなものといえるのだろう。親切にかぎらず、たとえばマナー違反などの軽い苦言(正論)をするときにも、それが元で因縁をつけられてトラブルになってしまうケースもありそうだ。
この吉行氏の警句のようなものを目にして、自分がふと思いだした別の文句があった、それは、「かえるくん、東京を救う」(村上春樹)という話の中にあったものである。それは、このようなものであった、「フョードル・ドストエフスキーは神に見捨てられた人々をこのうえなく優しく描き出しました。神を作り出した人間が、その神に見捨てられるという凄絶なパラドックスの中に、彼は人間存在の尊さを見いだしたのです」。
「かえるくん、東京を救う」の話のなかで言及されていた、ドストエフスキーの『白夜』という話では、知り合った女性にふられる男性が登場してくるようだ。そこでは、ちょっと大げさかもしれないけど、神(女性)に裏切られる人間を描いている、ということになるのだろう。この場合、男性は女性にたいして親切にするわけだけど、その親切があとでアダになってしまい、裏切られてしまうというわけである。
おもうに、誰かにたいして親切にするということは、その対象となる人物をまつりあげ、神格化することにもつながりかねないものではないか。そうなるためには、自己合理化されるだけの、ある程度持続的な親切の期間というのが必要にはなりそうである。だから、短期的な親切ならそのようなリスクもいくぶん少ないということがいえそうだ。
親切心とは、一般論でいえば、それ自体はとくに悪いものではないし、むしろ良いものでもあるのだろう。ただ、そこに個人的な期待であったり、下心のようなもの、あるいは自尊心の充足のようなものがからんでくると、話はちょっと違ってきてしまうものかもしれない。親切とは恩を売ることであるとすると、それが益としてやがて自分にかえってくることを願望してしまうところが、人間の弱さだということになるのだろうか。
だれかに親切にして、それが元でその対象となるものを結果的に神格化したとする。だがその神格化した対象から、自分が手痛く裏切られてしまうことになる。そうすると、パラドックス(矛盾)がおこり、自分自身が神格化される契機になるというわけである。なぜなら、対象から手痛く裏切られて、期待をつぶされて、見捨てられてしまった状態に、何とか耐えなければいけないからであるのだろう(あるいは、何とか克服しなければいけないから)。

削る

なんでも、スペインと日本とでは、自己というものにたいする価値観にちがいがあるということが、はた目から見てあるようだ。スペインでは、生活するということでは自己をふくらませるという感じであり、いっぽう日本では生活において自己を削るという感じがするそうだ。
自己をふくらませるというスペインのあり方は、文化の豊かさのようなものを示していそうである。生活において、どのようなものが豊かであり、どのようにしたら楽しいのか、というのをあらかじめ知っているからこそ、自己をふくらませるということもできうるのだろう。ただし、それだと国全体の経済の成長などは二の次になってしまう可能性がありそうだ。
そのいっぽうで、日本では自己を削るということが求められているといえそうだ。島国であり、みんながゆずり合っていかなきゃいけないから、そうする必要があるということもありそうだ。そして、ヨーロッパがストック型であるとすると、日本はフロー型の経済であるとされるので、自己を削ってでもそのフロー型の経済を維持することが、正しいことであるとされ、優先されているというわけである。
自分を削っているばかりでは、いずれ消耗してしまう可能性もありそうだから、それをあらためて見直すという意味でも、スペインにおける生活のありかたなんかが参考になるのではないかと思った。時間なんかでも、削る時間の使い方だけではなく、ふくらませる時間の使い方というのがあってもよさそうだ。